平成二十八年 旅






  平成二十七年 旅

平成二十七年一月一日 靖国神社初詣
  元朝や黒き木沓の光る音
  靖国に天皇紀買ふ年新た
  大吉を廻し読みする初詣

     
 
     


平成二十七年一月七日

  おほきみの大和の国の美籠若菜
  若菜摘む采女の歌は越の歌
  色白のすゞなすゞしろ粥乙女




平成二十七年一月三十日 初積雪(東京都内3㎝)

年末年始にかけ何度も降雪をみたが都心はいずれもわずかな
 積雪であった。きょうははじめて文京区でも3㎝を記録した。

 なにの木と知らるゝほどに雪化粧
  雪女郎語る村ごと消えにけり 


 平成二十七年二月四日 立春
 歩む影若やぎて見ゆ春立ちぬ
 春動く小橋に伸びる枝若き
 ざりがにと叫ぶ声あり水温む
 
 たをやかに立春満月にほひたち


 平成二十七年二月七日 観世能楽堂
   松濤に喜寿の能あり梅きざす  
     


 平成二十七年二月十日 東松山古墳めぐり

 東松山市埋蔵文化財センター
 
 村社高坂神社
(神社付近の古墳から出土品多数)

 三角縁陳氏作四神二獣鏡  復元された三角縁陳氏作四神二獣鏡 

卑弥呼の鏡?三角縁神獣鏡  「中国で発見」の論文   現地の研究者、執筆
朝日新聞平成27年3月2日(朝刊)

 
                     三角縁神獣鏡 
 古墳に副葬された鏡の一つで、縁部の断面が三角形を呈することからこの名がある。背面には神仙
 や霊獣の模様があるのが特徴。中には中国・魏の年号である「景初9(239)年」が入ったものもあ
 る。日本では 500枚以上出土しているが、これまで中国本土で1枚も出てこなかったことから、国
 産の鏡とみる研究者も多い。 
 
   水晶の勾玉と管玉  

 天神社 
東松山市埋蔵文化財センター附近にあって
方墳状の段丘上にある。学芸員氏によると
 未調査ながら古墳の可能性は低いとのこと。

 天神社前面    天神社背面

 【野本将軍塚古墳】年代5世紀後半~6世紀前半
 墳長115メートル 後円部高さ約15メートル
 前方部高さ約8メートル 未調査で内部構造不明
 墳頂に鎮守府将軍藤原利仁を祀る
 野本将軍塚古墳
埼玉県では行田市にあるさきたま古墳群の
二子山古墳に次ぐ規模第2位の前方後円墳

 将軍塚記念石碑  前方後円墳のくびれ部  前方部
 前方部より後円部にいたる稜線  後円部墳頂の社
鎮守府将軍藤原利仁を祀る
 後円部の斜面
 野本将軍塚古墳周辺 
 結氷した表土  野本将軍塚古墳後円部の後方全景  後円部墳頂の霜柱

 毛塚1号墳(前方後円墳)
どんぐり山公園内に復元保存するため整備中

     


  平成二十七年二月二十四日 青梅吟行

曇り勝ちの空模様の下、新宿から中央線に乗車、立川で青梅線に乗り換え、青梅駅に降り立った。現代的な電車とすこぶる対照的であったのがホームの待合室、ベンチ、地下連絡路「昭和の街 青梅へ」。駅を出て旧青梅街道に出ると、道の両側に昔懐かしい洋画邦画の看板が林立。地元案内書に銀幕街道と紹介されていた。ただし市内に映画館が一軒もないというのも不思議。

 JR青梅線 青梅駅舎  ホーム待合室  ホーム連絡地下通路
 ホーム連絡地下通路の壁を飾る映画看板   改札口手前
 旧青梅街道(青梅銀幕街道)/Ⅰ  旧青梅街道/Ⅱ
 青梅の鎮守住吉神社の梅  調布橋詰にある小泉八雲「雪おんな」碑  秋川街道調布橋下を流れる多摩川

          怪談 序文

 この「雪おんな」という奇妙な物語は、武蔵の国、
 西多摩郡、調布村のある百姓がその土地に伝わる
 古い言い伝えとして私に語ってくれたものである。
                    L.H.
           1904年1月20日 日本 東京

 奥多摩や二月を破る山と川
 清流は足下にありて梅薫る
 水の春青梅の里に笛の音
 老松に泰平の世の若緑
 


    平成二十七年三月六日 啓蟄 
椿山荘と関口芭蕉庵
   
 椿山甲斐麿
つばきやまかいまろ
推定一〇〇〇〇歳(山梨県奥山産)

 清小路瓢麿
きよこうじひさごまろ
誕生直後(東京都文京区産)



 平成二十七年三月十六日  道灌山

 道灌山への道  道灌山 諏方神社  山手線西日暮里駅付近のビル
 富士見坂
都内各地に残る「富士見」を冠する地名のなかで、現在でも富士山を望むことができる坂である。 荒川区教育委員会
  
       太平洋美術会
   太平洋美術会は、明治35年に
  その前身である太平洋画会が創立
  されて以来、明治、大正、昭和、
  平成の四世代にわたる輝かしい伝
  統を築き上げてきた。
   昭和20年3月の戦災による校
  舎焼失後、会員一同の協力により
  諏方神社前のこの場所に再建され、
  昭和32年、名称を太平洋美術会
  と改め、現在に至っています。  
         平成19年荒川区 


 
 「江戸百景」安藤広重画 「大日本名所図会」尾形月耕画 

道灌山  日暮より王子への道筋、飛鳥山の続なり。むかし太田道灌出城の跡なりといふ。くさくさの虫ありて、
    人まつ虫のなきいつれはふりいててなく鈴虫に、馬追ひ虫、轡虫のかしましきあり。おのおのその音色を
   聞んとて、袂すすしき秋風の夕暮より人人是にあつまれり。            『江戸名所花暦』
         
 


平成二十七年三月二十二日  新宿御苑 

 新宿御苑は平成二十三年九月二十三日以来、四年半ぶりの再訪である。
 前回の秋彼岸では十月さくら一種のみ、今回の彼岸では五指に余る樹種
 の桜が妍を競っていた。桜の代名詞ソメイヨシノも開花寸前であった。

     
 国民公園新宿御苑新宿門 入園券発売所  新宿門のハクモクレン(白木蓮)
 はらはらと白木蓮の散華かな
 歴史建造物旧御涼亭(台湾閣)からの眺望
   
 ソメイヨシノ(染井吉野)の下で遊ぶ子  ボール遊びする親子  シャボン玉で遊ぶ娘たち
   
 シダレザクラ(枝垂桜)  カンザン(関山)  タカトオコヒガン(高遠小彼岸)
 高遠の桜よろしき御苑かな
     
 モグラの穴
 あまねしやモグラの穴に桜東風
 スイレン(大温室)  バナナ(大温室
     
 ヒマラヤヒザクラ(ヒマラヤ緋桜) 新宿御苑 年間パス・発行窓口  ソメイヨシノ(染井吉野)
三月二十二日午後開花


平成二十七年三月二十二日  神田川大滝橋の桜  

       
       

     
     


 平成二十七年四月十七日  福岡古墳めぐり 第一日  

  平成二十六年十月三十一日、虎塚古墳石室特別公開に合わせ茨城県ひたちなか市にある7世紀初頭の前方後墳を
 見学した。保存状態は良好、しかし未盗掘ながら副葬品は貧弱。隣接の埋蔵文化センターには虎塚古墳のレプリカ
 と九州の装飾古墳の紹介写真があった。虎塚古墳は東日本唯一の彩色壁画古墳で福岡県嘉穂郡桂川町寿命にある国
 特別史跡王塚古墳を頂点とする壁画古墳の系譜につながることを知った。
  今回の古墳めぐりの最大の目的は四月十八日の王塚古墳特別公開を見学することにある。参考書には柳沢一男著
 『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』(新泉社刊)を携行。
  もう一つの目的は新原奴山古墳群の風景を見ることにある。吉村靖徳著『ふくおか古墳日和』(海鳥社刊)とい
 う写真集の表紙を飾った風景に心動かされたからである。それと同時に、平成二十五年十一月十六日横浜市で開催
 されたかながわ考古学財団「20周年記念事業シンポジウム「海浜型前方後円墳の時代(国指定長柄桜山古墳群をも
 とに関東地方沿岸部の特性と汎列島的な同質性をさぐる)」に参加したことから、玄界灘に臨む津屋崎古墳群の所
 在地にも関心がある。
  邪馬台国論争に欠かすことのできない糸島半島の伊都国に弥生時代から古墳時代への足取りをたどることに加え
 筑紫の君磐井の岩戸山古墳も日程に入れることにした。


     
 遠賀堀川と石炭運搬船かわひらたの写真   JR鹿児島本線折尾駅東口 日本の近代工業発展の基盤となった中間市


   伊勢神宮  大日霎貴(おおひるめのむち)
  出雲大社  大己貴(おおなむち)
  宗像大社  道主貴(みちぬしのむち)
         天照大神の三柱の御子神を祭る。
         沖津宮・田心姫神  中津宮・湍津姫神  辺津宮・市杵島姫神

     
 皇族下乗  宗像大社祈願殿  境内より玄界灘を遠望する
     
 古代祭場(神籬・ひもろぎ)
宗像三女神降臨の聖地
 第三宮(ていさんぐう)
 沖津宮祭神 田心姫神(たこりひめのかみ)
第二宮・第三宮 標識板  

   
 拝殿と本殿  本殿  本殿と神木楢の木 

     
  津屋崎古墳群(新原奴山古墳群)遠望 
     
   津屋崎古墳群(新原奴山古墳群) 

     
 津屋崎古墳群 (新原奴山古墳群) 
     
 津屋崎古墳群(新原奴山古墳群)  

     
  津屋崎古墳群 (新原奴山古墳群)  
     
 津屋崎古墳群(新原奴山古墳群)   
 

 中間市垣生(はぶ)公園内の横穴式古墳
   
   羅漢百穴(横穴式古墳)玄室開口部 
   
 前方後円墳の段丘(テラス)か  後円の墳頂部か  福岡古墳めぐりの一行

   
   神社境内は前方後円墳か  垣生(埴生)神社本殿

   
雪月花庵 

  平成二十七年四月十八日  福岡古墳めぐり 第二日  

           「讀賣新聞・北九州版」/平成27年4月18日(土曜日)

    世界遺産「沖ノ島」推薦書案を提出 文化庁に17年度の登録目指す

  素案によると、沖ノ島などの価値について、東アジアで海を越えた交流が行われた4~9世紀、
 貴重な奉献品を用いて航海の安全を祈った古代祭事の変遷を知ることができるとした。
  沖津宮、中津宮、辺津宮に3女神を祭る宗像大社が成立し、現代まで続いており、信仰の文化
 的伝統を育んだ人々の存在は新原・奴山古墳群に残されているなどとしている。


     
 王塚古墳の傍を流れる穂波川  
     
 王塚古墳  王塚古墳より王塚古墳館を見る  王塚古墳館

     
 中島古墳公園  天井石のない玄室
     
 装飾古墳玄室入口  装飾古墳に描かれた図像  古墳にたたずみ周辺環境を見る0氏

     
 「竹原古墳」  6世紀後葉の装飾古墳(円墳)舟と怪獣(爪を立て赤い火を吐く龍)を描くなど異色の壁画。
       公開時間終了直前に到着し幸運な見学となる。
玄室内部の湿度コンデション良好で壁画鮮明。


 平成二十七年四月十九日  福岡古墳めぐり 第三日

     
   糸島半島観光案内図  背振山地の向こうは佐賀県吉野ヶ里遺跡
   
 雨の伊都国歴史博物館展望室より
古賀崎古墳を望む
 古賀崎古墳を示す標識  露出した玄室

     
 古賀崎古墳より井原1号墳を望む  穂麦風  伊都国の雨
     
 井原1号墳(前方後円墳)近景  墳頂に玄室の側石(右は最近の墓石の台座)  前方部の葺石

     
 日向峠の日の出 平原王墓標識 日本最大の銅鏡出土  「国指定史跡 曽根遺蹟群 平原遺蹟」標識
   
 平原王墓 
 王墓は東西の長さ一四m、南北の長さ一〇mの長方形の墳丘をもち、周りを周溝が取り囲む。
 周溝は東西の角で陸橋状に途切れ、墳丘と外部を繋ぐ。
 平原王墓の副葬品の中でもっとも有名なのは銅鏡である。出土した四〇面の鏡の中には直径
 四十六・五㎝の国内最大の鏡五面が含まれる。

                       糸島市立伊都国歴史博物館「常設展示図録」

 銭瓶塚古墳(帆立貝式前方後円墳)


   平成二十七年四月二十日  福岡古墳めぐり 第四日

   
  茶のくに 八女 奥八女  案内図   史跡岩戸山古墳 標識碑

     
   岩戸山古墳別区 標識板  別区全景

 
                  岩戸山古墳「別区」
  ここは別区といって約四三メートルの正方形になった台地です。
  「磐井の乱」(五二七)後、約二百年を経た奈良時代につくられた、筑後国風土記にこの別区のことが次のよ
  うに記されています。
  「東北の角に当りて一つの別区あり、
号けて衙頭と曰ふ。衙頭は政所なり。其中に一の石人あり、縦容に地に
  立てり。号けて解部と曰ふ。前に一人ありて、裸形にして地に伏せり。号けて偸人と曰ふ。
生けりしとき猪を
  盗みき。仍りて罪を決められんとす。
側に石猪の四頭有り。贓物と号く。贓物とは盗みし物なり。彼の処に亦
  石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。」すなわち盗人が猪四頭を盗んでその罪を裁かれる状況と解釈されるよ
  うな石製品配置がなされたところがここの「別区」であり、また「別区」は祭儀の場所であったとも考えられ
  ています。
  全国の古墳の中でこのような「別区」を有し明確に現代まで残っているのは、ここ岩戸山古墳だけです。
                                  平成元年十月  八女市教育委員会


 
                ①
   
              ②               ③
   
              ④               ⑤
   
              ⑥               ⑦
 
             ⑧  


 岩戸山古墳

   福岡県八女市吉田にある古墳後期(6世紀前葉)の前方後円墳。矢部川右岸の標高50m
  の八女台地上に位置し、前方部を西に向ける。墳頂138m、後円部径88m、同高13m、前
  方部幅98mの2段築成、周囲に幅10mの周濠と幅20m前後、高さ約3mの外堤が巡る。墳丘
  北東部の外堤に沿って、一辺43m、高さ約1mの方形壇を付設する。この周辺から各種の人
  物・動物形・盾・靫形、石見形、笠形などの石製品が採集されている。神社建築のため南
  くびれ部付近が削られた際、須恵器や馬形石製品の一部や壺形石製品が出土したほか、196
  3年(昭和38)に行った前方後円部墳丘の調査でも、円筒埴輪列の内側から盾・靫・刀形の
  石製品を発見した。石製品(→石人・石馬)の種類と量において、他に比肩すべき例がない。
  『日本書紀』継体天皇21年条は→磐井の乱を伝え、磐井の墓について『筑後国風土記』逸話
  の詳細な伝承記録がある。磐井の墓をめぐっては江戸時代から岩戸山古墳と石人山古墳にあ
  てる2説があったが、森貞次郎は逸話記事との整合性から岩戸山古墳を磐井の墓と設定した。
  出土した須恵器の年代観に抵触せず、従うべき見解であろう。被葬者が推定できる数少ない
  古墳の一つである。国史跡。
  ■森貞次郎『岩戸山古墳』(1970・中央公論美術出版)
                            『日本歴史大事典』〈柳沢一男〉


     
     
     
     

     
 八女古墳群標識  史跡乗場古墳  後円部より前方部を望む
     
 テラス部を見る  くびれ部より北方に隣接する福島高校を見る  前方部より後円部を望む


 平成二十七年四月二十九日~五月一日 新潟

     
ため池百選「坊ヶ池」  京ヶ岳  山荘京ヶ岳


  新潟県の古墳を巡った。平成の大合併により新潟県の多
  くの村々は集約されそれぞれ新市に集約された。上越市
  もそうした経緯から成立した新市の一つである。元清里
  村は上越市清里区、その清里区の坊ヶ池から同区内の菅
  原に向かった。
  菅原古墳群は鬱蒼たる菅原神社の境内にあった。神社の
  かたわらで南瓜の苗を植えていた老農より古墳の今昔話
  を聞いた。昔は神社周辺にはいくらでも古墳があったが
  次々農地に転換されたという。今は穀倉地帯、田植え前。

     
 県史跡菅原古墳標識板  菅原古墳群1号墳(前方後円墳)
他に円墳30基現存(もとは100基以上)
 残雪かがやく頸城山脈


 品よき老農の教えにしたがって一山越え、保存状態良好という宮口古墳に
 向かった。旧牧村いまの上越市牧区宮口。金銅装円頭大刀が出土したこと
 から注目を集めた。一帯は公園化され、歴史民俗資料館が建てられていた。 

     
 宮口古墳道路標識  歴史民俗資料館  
     
 宮口古墳群(無袖型横穴式石室を基本とする円墳31基)日本北限の古墳群

 
 史跡水科古墳群 (34基の円墳からなる) 


  弥彦神社を参拝し、鶏鳴を録音。今年は弥彦山頂から
  佐渡島を見ることはできなかった。
  弥彦スカイラインを経て長駆北上し、胎内市大塚へ。
  大塚の地名、多くは大型古墳に因む。

   注目の古墳は水田地帯を吹く海風を受け孤立していた。

                               城の山古墳

   約40×35m、高さ約5mの円墳とされてきたが、平成26年(2014)の調査で南方から削られた前方部の
  周濠が見つかり、60m超の前方後円墳である可能性が高まった。ひとかご山、大塚山とも呼ばれる。舟
  形木棺とそれを覆う粘土に水銀朱とベンガラを確認。人骨片、銅鏡や勾玉、管玉、刀剣、銅鏃、靫、漆
  塗製品3点などの出土品の構成が近畿地方の前期古墳と共通し、当時のヤマト王権の北限が書き換えられ
  る発見として注目。被葬者を政権と同盟関係にあった王とする説も。近年人骨片が歯と確認され、被葬
  者が10~20代の可能性が高まった

                                                         『古墳の地図帳』

   
   


十日町市立笹山縄文館

  
 笹山縄文館  土偶(表面)  土偶(背面)
   
 国宝火焔型土器(レプリカ)  縄文土器に付着した穀物の焼跡  出土したベンガラ塊


  平成二十七年五月三十一日~六月三日 
第四十八回桜香会展 於ギャラリー樋口文庫(東京都虎ノ門)

 到伊都國





















 


  平成二十六年 旅

 平成二十六年一月一日  初曙光

 流れきて都会の川を初明かり
   


 平成二十六年一月一日  靖国神社初詣
 初晴や九段の杜に和御魂
   
     
   


平成二十六年二月三日(月)節分
南千住素盞雄神社節分祭
     
 節分を矢立の初千住宿      
     
 年男知り合ひ目掛け撒き散らし   節分の鬼も逃げ出す太鼓かな


 平成二十六年二月八日(土)大雪
千代田区大手町 最深雪量27㎝(観測史上8位)
   
   
 椿山荘大椿の間(二階)  都知事選ポスター掲示板  
   
     雪折や梅の移り香雪にほふ


  平成二十六年二月十五日(土)またも大雪
千代田区大手町 最深雪量27㎝(観測史上8位)
北の丸公園試験観測場 最深雪量39㎝
     
   関口芭蕉庵正門  
   
   芭蕉堂への道  芭蕉堂
   
 水神社大銀杏  野鳥の足跡  芭蕉庵四阿

   
 胸突坂  新江戸川公園(旧細川庭園) 
   
 雪吊   松に燈籠
 
 永青文庫への道  雪中紅梅 
   
   松聲閣  


     
 雪中椿   
     
 椿山荘三重塔    雪化粧したる若冲作の石仏


  平成二十六年三月二十九日  
横浜市栄区 本郷ふじやま公園


  これは鎌倉名越より出でたる日蓮にて候。
  われ天台法華教学の研鑽の功積もり。 一門立宗し。
  天変地異 濁悪充満の日本に。 立正安国の諫暁を
  重ぬるに。命龍の口の法難絶えず。末法に
  身命懸くる。 護持の誓ひは変はらねど
  暫し鎌倉を捨て。 身を身延に隠さんと存じ候。

  大町小町ほど近き。
  大町小町ほど近き。 松葉ヶ谷の露しげき
  草の庵を後にして。 鶴岡八幡伏し拝み
  巨福呂坂を越え来れば 五山第一建長寺。
  西に浄智 東は円覚の 禅問答よそにして。
  小袋谷を粟船へ 道はるばると 鍛冶ヶ谷うち過ぎて。
  暮れなずむ西の方 雲居の空に霊峰望む。
  名も同じなるふじやまの 岡の高きに着きにけり。
  岡の高きに着きにけり。

  はからずも命ながらへて今日見る 富士の山。 
  馥郁清浄として 万年の白雪を冠したり。
  いかさま此処に休らひて 出づる月をも待ちて 
  身延への苞にせばやと存じ候。

                               『ふじやま』
 

   
  旧小岩井家長屋門  式台に投げ入れの花春障子
   
 旧小岩井家  鍛冶ヶ谷に鶯鳴くなり手打ち蕎麦  
   
 妙法華経石に刻みてふじのやま  山路来てゆかりの菫ふたつ三つ  

   
    花曇り富士見の岡に雪柳  


 平成二十六年三月三十一日 浅草吟行
   
花時を雷門の待ち合はせ     猿曳は女なりけり花の銭
   
 カストリでどぜう鍋食ふ三月尽 (「どぜう鍋」夏季/明日から消費税値上げ)
   
     花疲れ人疲れして神谷バー


 平成二十六年 神田川花景色
 
     
 
   夜桜や川向ふなるさゝめごと  
 
     椿山荘錦水亭


 平成二十六年四月二十七日 宮内庁楽部雅楽鑑賞
      春なれや雲客となる日もありて

 春の雅楽演奏会の最終日は雲一つない好天に恵まれた。
 高円宮妃殿下ご臨席の下数年振りに鑑賞の機会を得た。
 当日の曲目は、管絃が〇壱越調音取〇蘭陵王〇武徳楽
 舞楽が〇承和楽〇貴徳〇登殿楽からなる構成であった。
 とくに右方舞の貴徳の面は白皙隆鼻の匈奴の王を表し
 絢爛たる装束と相まって舞台に映えて見応えがあった。
     
     大手門
     
 宮内庁雅楽演奏会場   宮内庁楽部

皇居東御苑
   
江戸城天守閣跡   桃花楽堂  麗日の千代田の杜の木霊かな
   
 宮居して竹の子の宮たふとかり  緑蔭や少女の肩に明日の風  ほどほどの草地に白き姫女苑菀

     
 もとひかるたけのこやどにかぐやひめ 東御苑 竹林三景  筍や離ればなれの近さにて
     
 石室案内板と石室(横穴式古墳にあらず)  江戸城 松之大廊下跡



 平成二十六年五月三日~五日 新潟長野遠征
     
 越後三山遠望 地元の人の山菜狩り盛ん 近くに熊出没中  要警戒 熊出現直後の現場
     
残雪の林道 春の舞姫出現地附近    待ち蝶来たらず


日本海珍味と新潟地酒飲み比べ
   
 特撰お造り盛り合わせ  「利き酒六種越後めぐり
麒麟山 久保田 〆張鶴
雪中梅 吉乃川 北雪

追加注文銘柄  鶴齢 越乃景虎 清泉
日本海珍味
 のどぐろ一本焼


弥彦

 
 JR弥彦線弥彦駅の朝  弥彦山頂より日本海を望む

弥彦山にてギフチョウの卵十数個を採集、帰京後弥彦A弥彦B
弥彦Cと三群に分割して飼育を試みる。食草はコシノカンアオイ。
幼虫の発育とともに各群食糧難におちいり、急遽フタバアオイを
加えて二鉢外注、事なきを得る。六月初旬いずれも蛹化、あとは
来春、ソメイヨシノの開花を待って羽化する日をひたすら待つ。

     
  食草コシノカンアオイの
 葉裏に産み付けられた卵
 1齢幼虫  2齢幼虫   3齢幼虫  食べ尽くされた食草の鉢
         
日光市より急遽宅急便で
取り寄せた食草の鉢2鉢 
カンアオイ  フタバアオイ  4齢幼虫   終齢幼虫

 
 枯樹皮片裏の蛹  ギフチョウ標本

     
 入広瀬村 道の駅「いりひろせ」  鏡ケ池公園  大原スキー場附近 春スキー盛ん

新潟県津南町から長野県栄村へ転戦。奥越後奥信濃の
豪雪地帯である。今春の数度にわたる大雪で雪崩発生
迂回路では予期せぬ渋滞に遭いようやく秘境の宿に。
帰京路となる奥志賀ルートは通行止、難路を引返し、
途中で津南町にある日本最大の河岸段丘を望見する。


   
 清津峡の一軒宿「瀬戸口」の前の棚田  土地の八幡宮に笛の音奉納  水芭蕉の群落
     
 炊き立ての自家製の米  岩魚の串焼き 廊下には昭和初年の新築設計図
     
 中津川の渓谷   秋山郷の春景色
     
新潟県中魚沼郡津南町 信濃川河岸段丘(日本最大規模)


平成二十六年五月八日 キトラ古墳壁画展
東京国立博物館

  奈良県明日香村にある古墳終末期(7~8世紀)のキトラ古墳(二段築成の円墳)は、 昭和58
  年(1983)、ファイバースコープによる非破壊探査,、さらに平成10年(1998)、超小型カメラ
  による非破壊探査によって初めて壁画の存在が明らかになった。石壁に漆喰を塗った壁画には天  上に星宿図、北壁に玄武、東壁に青龍、西壁に白虎、南壁に朱雀の四神、他に十二支像が描かれ  て高松塚古墳との関連が指摘されている。壁画にはカビが発生し現状維持が困難となって、剥ぎ  取られて保存修復が行われた。特別展は四神から玄武・白虎・朱雀および十二支神から子と丑。


  博物館平成館講堂で「朗読『ヤマトタケル』飛鳥・天平衣装ファッションショー」も鑑賞した。

     
 博物館前の公園で憩う人々  博物館前の看板 左後方に長蛇の列  入場待機者の行列の最後尾 
入館までに2時間30分を要した
   
 越後村上藩主堀直寄ゆかりの雪国の花  上野大仏顔面レリーフ 寛永8年(1631)越後村上藩主堀直寄が漆喰
の釈迦如来像を寄進したのが上野大仏の起源。
かつては仏殿もあった。以降度重なる地震や
戦災を受け寛永寺が保管現在は顔面のみ残す。


平成二十六年五月二十五日 東大寺

東大寺本坊での創作狂言「大仏くらべ」上演の招待を受けて東大寺参拝。
五月の東大寺の門前、境内は修学旅行生や外国人観光客であふれていた。

本坊は若草山を借景に静寂に包まれ、庭園は蓮や菖蒲の花盛りであった。

   
東大寺方面バス乗り場   華厳宗大本山東大寺  観鹿荘入口の鹿よけ扉
   
門前の鹿  子鹿と子供   奈良の大仏 右手の印相(原寸模型)
 
南大門と大仏殿  盧舎那大仏   八本脚の揚羽蝶
 
 狂言「大仏くらべ」上演広告看板  東大寺本坊 狂言上演会場  本坊庭園
 
 第一部箏曲演奏会場      第二部狂言上演会場  本坊庭園


 平城宮址と大仏殿
   
 平城の昔を今に揚雲雀    滴りや光遍き盧舎那仏



和銅元年(708)     造平城宮司長官を任ず(続紀)
   3年(710)    平城京に都す
養老元年(717)     下道真備,第八次遣唐使の留学生として入唐
天平13年(744)     国分寺建立の詔を出す(続紀)
  19年(747)    諸国の国分寺造営をうながす(続紀)
            東大寺大仏の鋳造を始む(要録)
天平勝宝元年(749)  陸奧国貢上の黄金を大仏に献ず(続紀)
            東大寺大仏の鋳造を終わる(要録)
     3年(751)  東大寺大仏殿成る(要録)
     4年(752)  東大寺盧舎那大仏開眼供養(続紀)

天平宝字8年(764)    吉備真備、造東大寺司となる
            恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、平定
天平神護2年(766)   吉備真備、右大臣に昇進



 平成二十六年五月二十六日 吉備大王の造山・作山両古墳

平城京の奈良から吉備の岡山に向かう。下に示したのは古墳時代に築造された
大規模な前方後円墳の一覧表である。「古墳時代」は順位11の箸墓古墳の前方
 後円墳を最初の定式として始まった(「前方後円墳時代」の開幕ともいえる)。
表からは古墳時代の吉備がヤマト王権の陵墓に匹敵する前方後円墳を築造して
いることがわかる。吉備大王の造山・作山両古墳には陵墓指定がないので自由
に域内に入ることができる。古墳は眺めているだけでは物足りない。また復元
修理され公園化されているのを見ても違和感がある。壁画は保存優先で滅多に
 見ることができない。今回の古墳巡りは古墳壁画を除き、渇を癒やしてくれた。

王墓とされる全長200m以上の前方後円墳
(『邪馬台(ヤマト)国 ー 唐古・鍵遺跡から箸墓古墳へ』/雄山閣刊より引用)

  順位    全長     古墳名    宮内庁治定       所在地    時期
    1   486  大仙古墳  仁徳天皇  大阪府堺市大仙町  中期後半
    2    420  誉田御廟山古墳  応神天皇  大阪府羽曳野市誉田  中期前半
    3   365  石津丘古墳  履中天皇  大阪府堺市上野芝町  中期前半
   4   360  造山古墳    岡山県岡山市新庄下  中期後半
    5   335  河内山大塚古墳  陵墓候補地  大阪府松原市西大塚
     羽曳野市
 後期前半
    6   318  見瀬丸山古墳  陵墓候補地  奈良県橿原市五条野  後期前半
    7   310  渋谷向山古墳  景行天皇  奈良県天理市渋谷町  前期前半
    8   288  土師ニサンザイ古墳  陵墓候補地  大阪府堺市百舌鳥西之町  中期後半
    9   286  仲ツ山古墳  仲津媛陵  大阪府藤井寺市沢田  中期前半
    9   286  作山古墳    岡山県総社市三須  中期後半
   11   276  箸墓古墳 大和百媛陵   奈良県桜井市箸中  前期前半
    
   25   218  ヒシアゲ古墳  磐之媛陵  奈良県奈良市佐紀町  中期後半
   26   214  男狭穂塚古墳  陵墓候補地  宮崎県西都市西都原  中期前半
   27   210  太田天神山古墳    群馬県太田市内ヶ島  中期後半


吉備古墳の聖地 総社駅前の黒姫の歌碑

     黒姫の歌
       高木聖鶴書

       やまと
        へに
      西風ふき
     あけて雲離
        れ
      退きおり
       とも我
       忘れめ
        や
        


 人皇十六代仁徳天皇は難波に都して皇后に磐之媛(いわのひめ)を迎える。葛城 襲津彦の娘で古事記に大后と記されるほどの権力者、臣下出身の初めての皇后で ある。ところが天皇が愛していたのはお側に仕えていた吉備の海部直の女、容姿 端麗な黒媛であった。黒媛は磐之媛の嫉妬深いことを畏れ故郷へ帰ってしまう。 天皇は皇后には淡路島が見たいと欺いて瀬戸内海をわたり吉備の国に到って再会 を果たす。やがて天皇が都へ還御する日、別れを惜しんで詠んだのが上に掲げた 「黒姫の歌」。古代における難波の朝廷と吉備の国の暗黙の歴史関係を示すか。


  夜麻登弊邇 爾斯布岐阿宜弖 玖毛婆那禮 曾岐哀理登母 和禮和須禮米夜

   やまとへに にしふきあげて くもばなれ そきをりとも われわすれめや
   倭方に   西風吹き上げて 雲離れ   退き居りとも 我忘れめや

 仁徳天皇陵は大阪府堺市の大仙古墳(全国1位)、磐之媛陵は奈良県奈良市
 佐紀町のヒシアゲ古墳(全国25位)。古墳中期後半で造山古墳(全国4位)
 作山古墳(全国9位)と同じく古墳中期前半に属する。古事記時代の遺蹟。

     
JR岡山駅構内にあるホテル
ロビーから総社方面を望む
吉備の国の中核総社 JR伯備線総社駅ホーム  総社駅前の荒木レンタサイクル店
     
 造山古墳標識と造山集落  造山古墳駐車場の「吉備の大王」像  埴輪と古墳
     
 造山集落     巨大古墳への道 焼板塀を飾る端麗な道標 「古」に注目
     
 国勢調査の腕章をした係員   前方後円墳くびれ部より造山集落を望む  係員の打ち合わせ(古墳埋葬者の調査?)
     
古墳の前方部に置かれた石棺
阿蘇凝灰岩製の刳抜式長持型石棺
(現在は荒神社の手水鉢)
 造山古墳標識  造山古墳俯瞰説明板
築造当時、履中天皇陵と全国1位
の規模を争った
巨大前方後円墳
     
 石棺蓋(附近の車塚古墳より運ばれたものか)残片にベンガラ痕跡。  前方部に祀られた造山集落の荒神社
     
 前方部より後円部へつづく尾根  近づく後円部  後円部頂上取っ付き(前方部を望む)
   
 取っ付きの大木に取っついた雨蛙
 のびちぢみペンキかわかぬ青蛙
 ザイルを伝っての最後の登攀  後円部頂上より吉備大王の支配地を望む
中世には城砦となった(羽柴秀吉の毛利
攻めに備え毛利方が後円部頂上を削平)
   
 前方部より後円部への稜線
 後円部を望む(段丘が認められる)
 墳丘左に大王の化身の樹が現れる。
 雨乞の木霊聞こゆる王の墓

造山古墳の後円部の麓から見た庚申山。
真北約1㎞。古墳の位置を決める指標と
なった?
 古代吉備の天壇(薬師寺慎一
 の仮説。造山2号墳の方墳を地壇とする)

六月三十日追記
(上掲写真造山古墳東方の平坦な耕作地の向こうに備中高松城。庚申山には毛利方の重臣吉川元春の陣所)

平成二十六年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」、ここ数回は、秀吉の毛利攻めを巡る展開を放映している。
毛利勢の東端に位置するいわゆる境目七城は次々落城、その中にあって備中高松城は沼沢地を利用した土
城で堅守を誇る。そこで黒田官兵衛は足守川の流れを堰き止め高松城周辺を水没させ兵糧を絶つ策に出た。
戦国史上に名高い備中高松城水攻めである。折しも梅雨で、水嵩を増した濁流は高松城を水中の孤城とさ
せる。その間本能寺の変があって秀吉は信長の死を秘して毛利輝元と和睦、中国大返しに出、山崎の合戦
で明智光秀を討つ。信長に代わって天下取りを進めた秀吉は関東の雄北条を討つため小田原攻めを敢行。
北条方の忍城の攻略を石田三成に命じた。三成は高松城と同様の地勢にある忍城をみて利根川の水を引き
込むため石田堤を築いた。そのとき本陣としたのが昨年二度行ったさきたま古墳群中の丸墓山古墳である。
(箸墓古墳は織田時代に墳上にお茶室があり箸墓長者が伊勢参りの客を相手に茶店を経営していたという)
戦国英雄は大河ドラマの人気を集めているが古墳時代の支配者たちはどんな思いで眠っていたことだろう。

     
 前方部周辺の造山集落にある標識柱と標識板   前方部に見られる段丘
   
 前方部に見られる段丘(三段)と周濠 
平成22年(2010)岡山大学考古学研究室の試掘調査の結果、周濠の存在が確認された。幅は約20メートル
一匹の黒猫が段丘の基部と周濠を往復し結界を護る(左写真中央にその勇姿)。あるいは黒姫の化身か
  造山古墳は宮内庁の管理下にない
日本最大の前方後円墳。周辺には
6基の中小古墳があるが大王の陪
塚とするには築造年代と様式に問
題がある。かねて2号墳と5号墳
に興味があった。残念ながら後者
は大きな天幕に覆われ装飾古墳の
 片鱗すら見ることが叶わなかった。


応神天皇(陵墓は全国2位)の妃
兄媛は吉備の臣の祖御友別の妹。
里帰りした妃を追い下向した天皇
は吉備の葦守宮に逗留している。
 造山1号墳【榊山古墳】  造山古墳と周辺古墳群を示す標識  
   
造山第2号墳(方墳)
薬師寺慎一の仮説によれば
庚申山天壇と相対する地壇
 造山第3号墳(円墳?)
 菜園の茂りつましく古墳村
   
 造山第4号墳(円墳もしくは前方後円墳)  造山第5号墳【千足装飾古墳】
前方後円墳(帆立貝型古墳)

装飾古墳内部の石障は水没の恐れがあって
切り取って保存することになった。岡山大
学考古学研究室の手によって作業進行中。
高松塚古墳・キトラ古墳に次ぐ壁画保存例

     
 造山第6号墳  民家敷地内にある古墳標識  吉備路風景


   
 大王の眠りは深し栗の花 枝蛙鳴けば吉備路に雨やまず


     
   雨中の中国自然散歩道 
 
     
 整備された吉備自転車道に銀輪見えず  前円後円墳?  方墳?


吉備国分尼寺跡

   
     滴りに尼そぎの髪匂ふらし
   
 金堂の光は失せて木下闇  さみだれや礎石あらはる尼寺の跡  
   
  はらはらと龍女の数珠に走り梅雨   


こうもり塚古墳

6世紀後半の前方後円墳(二段築造)。墳長100m。
黒媛の墓伝説は仁徳天皇陵が4世紀であることから
否定されるべきか。しかし美古墳の主はこれからも
ずっと黒媛であって欲しいと思わせる魅力がある。

     
   梅雨空をところどころに行潦  こうもり塚古墳全景  
     
玄室に安置された刳抜式家型石棺 
岡山県井原市浪形山産出の貝殻石灰岩製
 こうもり塚古墳標識
(後円部南側)
     
 羨道より見る外の景色  羨道  吉備最大の両袖式横穴石室


備中国分寺跡

     
 備中国分寺跡標識板    国分寺五重塔
     
 国分寺遠景    


作山古墳

     
 雨の吉備路に浮かぶ作山古墳    作山古墳の美しいシルエット
     
 作山古墳標識板  前方部周縁 斜面は泥濘で滑りやすい  
     
 前方部より後円部へつづく尾根道  墳丘の葺石と推測される  後円部附近の尾根道
     
   後円部頂上の標識板  
   
 後円部周縁の小径 集落墓地の脇  段丘が確認できる  前方部より後円部を望む
     
 午前中わずかの晴間 午後より夕方まで降雨  一日を歩き尽くして麦の秋  JR伯備線で総社より岡山へ移動


平成二十六年五月二十七日 備中高梁

   

 備中高梁駅よりよく見える山寺
大福寺より高梁川対岸の臥牛山
頂にある備中松山城方面を臨む
 高梁川(画面上が上流 吹屋方面)
   
 山門の鐘楼 城下町を見下ろす墓地
 めねぎ畑
関東地方にはないねぎの一品種
岡山市内の鮨屋でめねぎを芯に
瀬戸内海産の白身魚で巻いた鮨
が出た。ピーチポークも出た。



 備中高梁吹屋ふるさと村

 

    高梁バスセンター (2番のりば)    一日五本運行  (六月二十七日乗車記録

  高梁    川面駅    河戸    元仲田邸前    笹尾市場  穴田     吹屋
  10:50  → 11:11   → 11:15   →  11:34   →  11:37     ー   →  11:48

  16:43  ← 16:22  ← 16:18   ←   15:59  ←  15:56     ー   ←  15:45

   
 JR伯備線備中高梁駅舎  備北バスのりば  BIHOKU BUS
   
 吉備高原の水田    中国山地の向こうは島根鳥取両県
   
   吹屋往来  
   
 土産店べんがら屋  往来裏風景 


     
備北バス運転席から見る
通行規制中の狭小な道路
お休処  お休処名物「けんちゃんそば」
備北バス運転手氏の推奨

     
 燕団地 ひっきりなしに燕が出入り    桃太郎のいなくなった国の話


吹屋小学校
明治6年(1873)開校、平成24年(2012)閉校の日本最古の木造校舎。

     
     


弁柄の里 吹屋
国重要文化財 旧片山家住宅

宝永4年(1707)弁柄生産開始。片山家(胡屋)は宝暦9年(1759)創業、苗字帯刀を許された豪商。弁柄は建材や家具の塗料、陶磁器や漆器の顔料として全国に流通。昭和50年前後に弁柄製造は断絶。現在はかつての隆盛をしのばせる商家や町屋の家並が保存されて国重要伝統的建造物保存地区に認定されている。

     
 胡屋ポスター(明治時代初期)   旧片山家住宅入口 弁柄製造販売 片山一門総本家前の賑わい
     
 商家奥の附属建物   弁柄漆喰の海鼠壁


 平成二十六年六月八日 南千住素盞雄神社天王祭

 
     神楽殿の太鼓を上に聞いて一やすみ
 
 金魚すくいの名人はだれか
全日本金魚すくい連盟
 金魚のエサ \100 カメのエサ \150  
 
 女神輿  子供神輿  天王祭の初顔 黎明クン
 
 東北復興祈願 天王祭撤饌  大神輿 神官のお祓い


  平成二十六年六月二十日 国立劇場
森鴎外=原作 宇野信夫=作・演出 ぢいさんばあさん
 三幕

     
 国立劇場公認キャラクタ- くろごちゃん    


平成二十六年六月二十三日
早稲田大学演劇博物館主催
シェイクスピア生誕450年記念公演 於小野記念講堂

 



 平成二十六年八月十六日
九品山唯在念仏院浄真寺 二十五菩薩来迎会

 三年に一度という九品仏浄真寺の二十五菩薩来迎会は「お面かぶり」として有名。
 午前十一時より法要というので地下鉄副都心線で自由が丘へ。東急大井町線九品
 仏駅はすぐ隣駅、ホームに入ってきた電車に乗ったところがたまたま「急行」で
 あった。いくつかの駅を通過して二子玉川駅まで運ばれ、そこから「各駅停車」で
 九品仏駅に戻る。降車しようとすると五両編成の最後尾の車両のドアが開かない。
 この駅だけホームの長さが足りないのであった。大井町から溝の口までの短距離線
 をいかに運行するか、昭和以来の来訪で、問題が多少あるような印象を受けた。

 
   九体九品の阿弥陀堂

  浄土三部経の一つ『観無量寿経』によれば、衆生は生前に積んだ功徳により阿弥陀如来
  の浄土に迎えられ、往生する際にさらに功徳の大小により九段階(九品)の浄土に振り
  分けられるとする。その教えに基づき造営された阿弥陀堂として有名な寺が京都と東京
  にある。
  京都の浄瑠璃寺。天平年間に聖武天皇の勅願により行基が開山したと伝える。東方浄瑠
  璃世界に向かって本堂に九体の阿弥陀坐像(中央の阿弥陀像が中尊で他より大きい)を
  安置、「九体寺」と呼ばれている。
  東京の浄真寺。江戸時代の延宝六年に珂碩が開山。上本堂(上品上・上品中・上品下)
  中本堂(中品上・中品中・中品下)下本堂(下品上・下品中・下品下))の三仏堂に計
  九体の阿弥陀坐像を安置、「九品仏」と称されている。


     二十五菩薩
  阿弥陀如来を念じ善根を積む衆生を守護、その臨終に際し西方より来迎する二十五の菩薩。
  二十五菩薩来迎会は迎接会、練供養とも言われ、古くは奈良の当麻寺の法会が有名である。
    ねり供養まつり貌なる小家かな   蕪村



 連鷺草紫雲はあつし九品仏

     
東急大井町線「急行」(2008年3月28日運転開始)  浄土宗九品山唯在念仏院浄真寺の総門
二十五菩薩来迎会 

片かげり総門抜ければ六地蔵 
浄真寺参道の善男善女 
 汗拭ひ白道を行く衆生かな
     
 焔魔堂の閻魔大王像 (右奥に奪衣婆像
奪衣婆も団扇欲しがる閻魔講 
開帳された仁王門(紫雲楼)
阿弥陀如来と二十五菩薩

 開帳にみ仏たちの一涼み
   
 来迎会会場  三仏堂のうちの上品堂の阿弥陀如来(この御堂を浄土に見立てる) 
 炎昼の三仏堂を吹流し



   
導師の先導で此岸(娑婆)の本堂より
彼岸(浄土)上品堂へ向かう信徒たち
 
 娑婆と浄土を結ぶ橋の中央の塔
橋の長さは三十六間(約65メートル)

 雅楽演奏で菩薩の来迎を知らせる僧侶たち
   

往相」二十五菩薩の来迎  上品堂(浄土)で菩薩となった信徒は本堂(娑婆)へ向かう
虫干のお面かぶりや練供養  
     
 二十五菩薩の最後は地蔵菩薩 参拝者に配られた奉納うちわ 「還相」 娑婆から再び浄土へ

   
   
夏帽子まるく乗せたる地蔵顔
   
  散華  子どもが手にした散華 蓮のデザイン
   
 稚児たちも浄土へ
 天童の天冠映ゆる木下闇
 菩薩面(お面かぶり)をはずして本堂へ  住職による念仏十遍の唱和

   
 境内にある河口慧海記念碑  釈迦如来座像(本堂)


平成二十六年八月十六日
等々力渓谷

   
 等々力の茶屋  満願寺等々力不動尊  轟の滝

     
 等々力渓谷  等々力渓谷3号横穴 
     
  等々力渓谷1号横穴  御岳山古墳(帆立貝式古墳) 


平成二十六年八月十六日
玉川野毛町公園

 

 玉川野毛町公園案内図
案内図の左側上部に「野毛大塚古墳」
野球場とテニスコートにより形状一部損傷

 公園の亀(ニホンイシガメ) 
名はワカメ
 推定二十歳
   
 公園の亀(アカミミガメ) 
名はカツオ
 推定二十歳
 名のいわれ 世田谷区民サザエさん一家?


平成二十六年八月十六日
 都史跡野毛大塚古墳

 多摩川下流に点在する荏原古墳群は「田園調布古墳群」と「野毛古墳群」に二分
 される。野毛古墳群に属する野毛大塚古墳は帆立式前方後円墳。造出しを有する
 三段築成で葺石があり、段築の各テラスには埴輪群が置かれていた。後円部(主
 体部)より甲冑、刀剣をはじめ豊富な副葬品が出土。南武蔵の有力な首長であっ
 たことが知られる。御岳山古墳・等々力渓谷横穴古墳群も野毛古墳群に属する。

 
 都史跡野毛大塚古墳 標識  野毛大塚古墳  前方部造出部分の葺石
   
帆立式前方部の埴輪列  後円部墳頂 埋葬部分を示す標識  副葬品の位置を示す標識



平成二十六年十月九日
 国史跡熊野府中熊野神社古墳 


  「朝日新聞」(平成二十六年九月三十日付第2東京版
 )「東京風土記」に
  〈全国たった6例 上円下方墳〉という古墳の紹介記事が掲載された。早
  速切り抜いておいたスクラップを手に巡検することにした。なお別冊太陽
  「太陽の地図帳/楽しい古墳案内」(平成二十六年一月刊)にも「全国で
  5基しか確認されていない「上円下方墳」と呼ばれる珍しい形の古墳。綿
  密な設計と高い技術を要する。復元された古墳の葺石を貼りつけた外観は
  まるでモダン建築物のよう」とする案内記事がある


     
 JR南武線西府駅北口  武蔵府中熊野神社  周辺案内板
 
    7世紀中期~後期、古墳時代終末期における
南武蔵最大の古墳。3段築造。1段目24㍍
の方形。2段目直径16㍍の円形。高さ4.8㍍。



     
 復元古墳の見事な葺石。古墳時代終末期
 の技術の集積を見ることができる。多摩
 川は流域古墳の葺石の一代供給地である。
 国史跡武蔵府中熊野神社古墳展示館 
     
 出土品  横穴式石室内部  横穴式石室入口

   
 御嶽塚古墳/円墳 
   
 高倉古墳への道を示す小さな案内板  高倉古墳標識板  公園に整備された円墳
   
 円墳頂上より公園入口を望む  古墳より多摩丘陵を望む  高倉古墳全貌

周辺住宅地内の道案内看板
かすかに高倉古墳の位置が読み取れる

     
 八雲神社(天王塚)古墳/円墳 
     
 宅地に囲まれた畑  駅周辺の飲食街 


 平成二十六年十月十八日
  雑司が谷鬼子母神御会式  

   
   雑司が谷鬼子母神御会式  
   
     
   
     
   
 犬ぐつわされた犬  お練りに加わった犬  



平成二十六年十月二十六日~二十七日
湯河原・江ノ島・鎌倉

     
 新宿早大通り恒例のフリーマーケット  会場を練り歩く若者のちんどん屋一行
     
 JR東海道線東京駅 特急踊り子号  JR東海道線湯河原駅ホーム  西武路線バスJR湯河原駅行
 
 湯河原大滝ホテル源泉案内板  大滝ホテル歓迎看板   不動滝


   
水引や並べて小花の濃紫
湯の宿は瀬音絶えせず櫨紅葉 
湯けむりの里は湯河原秋惜しむ 
 
 いくたびか生まれかはりて野の小菊
 奥湯河原温泉風景
獣骨の白き強さよ冬近し
 
 
 すゝき揺れ淵には碧き波の紋
山の端は釣瓶落としの井桁かな


   
 小田原に鈴廣ありて菊薫る
   


   
江ノ島や浜を伝ひて秋暮るゝ
 弁財の島に聞かばや秋の声
 江ノ島の老舗旅館「惠比壽屋」
 秋深し三百余年島の宿
 
 海風にいよいよ黄なり石蕗の花
海へだて富士の初雪ながめけり
 江ノ島シーキャンドル(展望灯台)
   
浮かれトビ人の心は秋の空 
 さざえの壺焼と江ノ島地ビール
鎌倉に大銀杏なき八幡宮 


  平成二十六年十月三十一日
虎塚古墳石室特別公開と常陸の遺蹟

(株式会社朝日旅行企画催行)

     
 東京駅丸ノ内南口  集合場所/丸ビル前  天台観光バス
     
 虎塚古墳前方部  前方部から後円部にかけての曲線
 しなやかな塚のくびれや秋古墳
     
 国史跡虎塚古墳 観覧券 受付no43  石室のある後円部東面の公開場所  壁画見学者の列(1回6人制限時間3分)


   
 古墳南側の周濠  虎塚古墳標識板
 落葉する古墳に赤き壁画かな
 古墳北側の周濠
   

 後円部墳頂

 後円部より前方部に至る稜線
  海近き古墳は低し虫の秋
 北側くびれ部の傾斜面


 
様々なる形象 
平成二十六年 油彩・カンヴアス
                               六十一×七十三糎
  

   平成二十六年五月八日、東京国立博物館で開催中のキトラ古墳壁画展に出かけた

    その後、常設展会場で埴輪、挂甲武人を観た。完全武装の大型像で知られる国宝の
   埴輪である。高さは一三〇.五糎
六世紀、群馬県太田市出土。まずこれを画面中
   央に配し、左右には鷹狩、弾琴の埴輪を置く構成とした。右上に二世紀、平原遺跡
   (福岡県糸島市)出土の内行花文鏡(国宝)、また背景及び左下の騎馬像は六世紀
   王塚古墳(福岡県嘉穂郡桂川町)の装飾壁画をもとに描いた。右下には勾玉を思い
   つくままに五つばかり描いてからサインを入れた。一ヶ月足らず(その間、岡山の
   造山古墳群にある千足装飾古墳を見に行ったが修復中で未公開であった)で試行錯
   誤しながら一気に制作した。なお題名には古代形象美の豊穣讃歌の意味をこめた。


   
   ひたちなか市埋蔵文化調査センター  
   
虎塚古墳壁画(レプリカ)
 玄室西壁文様
三角文・円文・弧線文・馬具
 虎塚古墳壁画(レプリカ)
玄室奥壁文様
三角文・環状文・槍・太刀・靫・鞆
虎塚古墳壁画(レプリカ)
玄室東壁文様

三角文・渦文・靫・鞆・首飾り・馬具
     
 出土品展示棚  埴輪頭部  乳飲み子を抱く埴輪
   
 子持勾玉  熊本県玉名市永安寺東古墳(装飾壁画)写真  大刀

     
十五郎穴(十五郎横穴群)  つれだちて古墳をめぐる秋一日 
     
   大串貝塚標識板  露出した貝塚

     
 貝塚断層保存室  保存された貝塚断層 
     
古代住居復元村   木の実つく常陸の国の杵の音

     
 昼食施設 那珂湊・ヤマサ水産  バス車内から見たスカイツリー  隅田川夜景
 夜目遠目隅田の川のそゞろ寒


平成二十六年十一月十六日
「雲隠之会」秋の奥多摩秋川吟行


   
 JR武蔵五日市駅  同駅前 阿伎留神社御旅所
   
 黒茶屋の門構え  水車
 前菜は大籠一つ秋を盛る

     
酒は燗酌は髱よし茶屋遊び 
奥多摩は山里なりき零余子飯 
 
     
 

     
   
杉玉に思ひ切なり今年酒 

 
 
多摩川のみなもと清し水の秋 
猿酒を吊橋で飲む山帰り 
 
岩頭に太公望の根釣かな 
冬うらゝ足湯に家路おぼつかな



平成二十六年十一月二十七日
前橋大室古墳群/岩宿遺跡/高山村

前橋市の古墳群とみどり市(旧笠懸)岩宿遺蹟をめぐり最後に高山村でりんご狩という上州の旅を計画した。前橋でいきなり大室古墳群の位置がわからず車は迷走、産業廃棄物建設場絶対反対の立て看板でおおよその見当をつけることができた。赤城南麓にある大室公園は古墳の保存を中心に平成九年から一六年にかけて整備した立派な施設である。五基の前方後円墳と一基の円墳からなる古墳群のうち四基をめぐった。この時期の古墳は墳丘をおおう草木が枯れているので観察には適している。
つぎに訪れたのは岩宿遺蹟。民間の青年考古学者相澤忠洋がこの地で旧石器を発掘した。戦前の考古学の常識にはなかった旧石器時代の存在を明らかにした古代史上の不朽の業績である。

   
大室古墳群附近に立つ産業廃棄物場
建設絶対反対の看板
 前二子古墳(前方後円墳)  中二子古墳(前方後円墳)と埴輪列
   
 大室公園南口駐車場に出てきた三匹の猫  五料沼から望む赤城連山  中二子古墳前方部
   
  中二子古墳後方部  後方部より前方部へ伸びるくびれ部  前方部墳頂

   
 中二子古墳前方部  冬桜 内堀4号墳(円墳)
   
 民家園  大室はにわ館  古代首長衣装復元

   
 小二子古墳(前方後円墳)標識   小二子古墳全景   小二子古墳の埴輪列と袖無形横穴式石室
   
 小二子古墳後前部より後円部を望む  中二子古墳周濠  中二子古墳くびれ部

   
 前二子古墳全景  前二子古墳くびれ部  前二子古墳段丘部
   
 前二子古墳  前二子古墳後円部より榛名山方面を望む  古墳丘に映った古代人の影

   
 岩宿遺跡標識  古代史の聖地岩宿  旧石器発見者相澤忠洋記念像
岩宿遺跡に感慨一入の甕麿   相澤忠洋記念館  

     
 田村りんご園よりぐんま天文台を望む  高山村M師邸を再訪した甕麿  道の駅「中山盆地」夜景


十二月二十三日 池田山舞台

   
     


十二月二十五日  東京都庭園美術館


   
     
     

十二月二十六日 歌舞伎座
十二月大歌舞伎 千穐楽
通し狂言「雷神不動北山櫻」市川海老蔵


   
     




 

 平成二十五年 旅 


 平成二十五年一月十四日  成人式
7694歩


未明より降雪。所要ありて四谷に赴く。四ッ谷駅、迎賓館、学習院初等科いづれも
 雪に埋もる。若葉町周辺の坂道にて動かざる車輌散見。甲州街道事故ありて大渋滞。
 舗道の雪だるま箒を持して微笑するのみ。街路樹一斉に雪花。晴着の乙女に劣らず。

 鳥は飛び魚泳ぐなり雪白し



   
     
     
     
     


 平成二十五年一月十五日
3925歩


新江戸川公園の広場、朝の体操会場にラヂヲ持参の役員唯一人あり。
念の為との挨拶よし。散歩計画を変更し、急遽参加することに決す。
当地にも雪だるま健在、両腕広げ応援の体。童子の声聞ゆるが如し。

 すべからくまづ始むべし雪の朝



     
     
     
     


 平成二十五年二月九日
   7034歩
 

さきたま風土記の丘古墳群を訪ぬ。史蹟埼玉村古墳群の石碑あり。
この古墳群の地、明治二十二年(1889)四月、埼玉・渡柳・利田・
野の四ヶ村合併し北埼玉郡埼玉(さきたま)村となる。その後昭和
二十九年(1954)行田市と合併、赤城颪の吹く関東平野によく古墳
時代の面影を今日に伝へたり。現在整備され国指定史蹟となれり。


 


 

丸墓山古墳は国内最大の円墳。墳丘の高さ19メートル。当日晴天にして北武蔵の
平野一望さる。赤城・妙義・榛名の上毛三山は雪解け進むも遠く日光男体山・浅
間山・富士山の諸峰はなほ冠雪ありて白銀に輝く。

天正十八年(1590)豊臣秀吉、関東支配を策し小田原後北条氏を総攻撃。配下の
石田三成忍城攻略にあたり丸墓山に本陣を布く。長堤を築き利根川・荒川の水を
流入せしめ水攻めす。映画「のぼうの城」史実を踏まへし娯楽作品。造堤工事に
駆り出されたる領民の足下より次々と埴輪が掘り起こさるゝ場面あり。国盗りに
明け暮れし時代、同様に毀損されし古墳多かるべし。
       
 

     
   忍城 御三階櫓  

   
 石田堤  土日限定営業「古墳亭」入口

春風や武蔵の王の丘つゞき

       
 二子山古墳(5世紀末築造)武蔵国最大古墳  
       
 将軍山古墳                円筒型埴輪              将軍山古墳展示館  

       
 稲荷山古墳(国宝金錯銘鉄剣発掘)   
       
 富士山 廓(墳頂部)  赤城山  
大王の夢のかたちや春の墓 


梅ひらく古代の夢を語るべく 




平成二十五年二月十日 

 群馬の森公園 県立歴史博物館 綿貫観音山古墳
        13023歩

 


     
 
   


     
 
綿ひきて鉄塔つゝむ春の空 
   
       
 榛名山    浅間山  


     
 不動山古墳  舟型石棺石蓋なし


 
東国の正倉院 
 国指定史跡観音山古墳(6世紀末築造) 玄室入口

野焼して魂揺り戻す古墳かな 

晴天無風。群馬県立歴史博物館にて群馬の古代より近代に至る歴史を概観、館出で
 徒歩にて綿貫観音山古墳を目指す。畑中に黒々と隆起したる二段丘、頂に人影あり。
 墳丘の芝一面焼け焦げたり。聞けば今朝野焼きしたるばかり、年一度の行事といふ。
管理人氏に案内を乞ひ玄室内部を見学す。巨大なる天井石、両壁面の整然たる石組
に古墳時代最後を飾る様式美あり。副葬品は盗掘をまぬがれ埋葬位置にほぼ完全な
 る姿で発見、洗練されし優品の数々は上記歴史博物館の所蔵となりて常設展示さる。
近郊吉井より来訪したる見学者二人、監理人氏に素朴なる質問連発す。余も俄か考
 古学談義に加はり時移るを忘る。件の三者あるひは周壕掘りし民草の末裔なりしか。

また聞けば今朝の上毛新聞第一面、渋川金井東遺跡より発見されし鎧着たる武人の
人骨の話題にて持ち切りといふ。五世紀末および六世紀初頭、二度にわたり榛名山
二ッ岳噴火。その火砕流に巻込まれしまゝの武人の遺骸なり。かの三者の祖先の系
譜に連なるや、これも上毛浪漫。戦後食糧難に周辺の荒地開墾中、未盗掘の玄室露
出したるとか。その昔「古き墳はすかれて田になりぬ。その形だになくなりぬるぞ
悲しき」と嘆く法師もありけり。消滅したる古墳無数。われら墳墓の上に暮らす。


春望や古き大墓すかれざる


     
 観音山古墳(6世紀末築造)

 
 普賢寺裏古墳


 平成二十五年二月二十四日
23415歩

東京都大田区荏原台古墳群
宝莱山古墳/亀甲山古墳/多摩川台古墳群


 日曜日の午後、多摩川の古墳めぐりを楽しむ。多摩川を眼下に見下ろす景勝地に
 南武蔵最大の前方後円墳二基あり。亀甲山古墳は野鳥の楽園、アマチュア写真家
 望遠レンズに収めんと待機。折しもルリビタキ、ジヨウビタキ相次いで姿を現す。

 古代びとは死者の魂鳥となり空翔けると信じたりと聞く。渡り来たる美しき野鳥
 二羽、一つ枝に戯ることしばし。ゆくりなくも武蔵国造の乱ありけるを思ひ出づ。


   武蔵国造笠原直使主と同族小杵と、造を相争ひて、年経るに決め難し。
  小杵、性阻くして逆ふこと有り。心高びて順ふことなし。密に就きて援を
  上毛野君小熊に求む。而して使主を殺さむと謀る。使主覚りて走げ出づ。
  京に詣でてその状を言す。朝廷臨断めたまひて、使主を以て国造とす。小
  杵を誅す。国造使主、悚憙懐に交ちて、黙已あること能はず。謹みて国家
  の為に、横渟・橘花・多氷・倉樔、四処の屯倉を置き奉る。是年、太歳甲
  寅。(『日本書紀』安閑天皇)


 多摩川流域のこの一帯を首謀者小杵の本拠地に比定する説あり。

さへずりや多摩川古墳ぬける風  

     
     


   
 多摩川台公園古墳展示室 

   
宝莱山古墳 (四世紀第2四半期築造) 

   
亀甲山古墳(四世紀後半築造)


       
       
 多摩川台古墳群
(第1号~第8号)



平成二十五年三月八日
18854歩


栃木県下野市(「しもつけ風土記の丘資料館」周辺古墳)
群馬県高崎市(「かみつけの里博物館」周辺古墳) 


「しもつけ風土記の丘資料館」周辺古墳

しもつけ風土記の丘資料館を見学し館を出づるやジヨウビタキ飛来せり。
過ぐる日多摩川古墳群亀甲山古墳にて会ひたるものか疑ひつゝも心躍る。

愛宕塚古墳は愛宕神社に守られたり。前方後円墳のくびれ部に社殿あり。
後円部墳頂に古墳の形状測量する人あり。境内は鬱蒼たる樹林なれば古
墳の全容を知ること難し。標識なければ看過の懼れ。神の加護ありけり。

丸塚古墳は春耕の風景によく調和せり。南面する横穴式石室の形状精美。
しもつけ乙女の如き古墳のたゝずまひに引かれたるか、忽然と蝶出現す。

     
国分寺愛宕塚古墳標識 国分寺愛宕塚古墳  国分寺愛宕塚
古墳後円部墳丘(調査中)
     
 丸塚古墳標識  丸塚古墳全景  丸塚古墳円墳開口部

 冬眠から覚めた蝶 キタテハ

 
 山王塚古墳



円墳の丸塚古墳に接し前方後円墳、畑のたゞ中にあり。農道なし。両古墳間の畑地にビニール
ハウスにて作業する一老農夫あり。古墳の名を問へば山王塚古墳なりと答ふ。樹木あるところ
後円部なるべし。基盤部を見るに畑地との境界定かならず…。補聴器つけたる農夫、昔語りす
ることしばし。一帯もと身の丈を越す野草に覆はれ古墳のありどころさへ知る者なし。戦時中
食糧難のため開墾進む。農家さらに豚を放し飼ひせり。豚みづから餌をもとめ地を掘り返す。
農地耕さずして拡張さる。いま見る古墳基盤部の笹も生えぬあたりは猛暑を避け涼を求め豚寝
転がりし跡なり…。たとへ文化庁役人来たりて原状変更の疑を質すともこれに代はる返答よも
あらじかし。柔和なる語り口に懐深き開拓農家の面目躍如たり。 
しもつけに豚の耕す畑かな  


律令制国家の登場とともに古墳時代は終焉。下野国にも国府と国分寺。

     
 下野国国分寺国分尼寺復元図  下野国国分寺跡(復元中  堂塔跡礎石(復元)


  琵琶塚古墳は下野国最大規模、墳丘全長123メートルを誇りしが
 近年吾妻古墳の調査ありてその全長127.85メートルと判明、地位
 逆転したりと聞く。同古墳は江戸時代より「吾妻の岩屋」と呼ば
 れし如く横穴式石室露呈したるものなり。今回は巡検より外す。

 琵琶塚古墳の名は前方後円なる形状より生まれしならん。周溝の
 幅広し。墳頂に小祠あり。何を祀りしか知らず。富士登山記念の
 奉納札ひとつ認む。墳丘は杉の植林に包まれ村落の生活音拒む。

 摩利支天塚古墳は名の通り墳丘に摩利支天を祀る一社殿あり。日
 に仕へる陽炎の神といふ。中世武士の信仰厚かりし神にして今日
 に至るまで崇拝されたるべし。板東武者の疾駆せし往時を偲ぶ。

         

板東につよき陽炎たちにけり 


後日譚
三月十日、東京都は南の風強く気温急上昇夏日となるも
午後一転北風に転ずるやいなや天俄にかき曇れり。すは
黄砂来襲とたれしも思ひしに気象庁これを認めず。曰く
煙霧。寒暖の前線衝突、北関東の乾燥土壌巻き上がりて
関東一円覆へると。民放その中心は下野市なりと報ず。
或は下野国にて数万の豚挙兵の動きあるか、壮観なり。

  板東を摩利支天ゆく春嵐


     
 摩利支天塚古墳標識  摩利支天塚古墳後円部墳頂からの眺望 後円部墳頂より前方部を見る
     
 琵琶塚古墳標識  琵琶塚古墳前方部  琵琶塚古墳後円部墳頂


「かみつけの里博物館」周辺古墳


下野国より上野国へ長駆移動す。朝、佐野SAにてご当地名物ラーメンを食したるの
みにてはや午後三時を過ぎたり。空腹抑へ難く腹の虫さかんに鳴くもあはれなり。
古代人は一日二食との説あり。空腹を抱へ墳墓築造に狩りだされし民の嘆き深し。

高崎市保渡田町・井出町の市街地に入るや八幡塚古墳その威容あらはす。墳丘すべ
て葺石にて築造、さらに墳丘テラスは全周埴輪をもつて囲繞。復元なれど最も期待
したる景観これ。二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳併せ保渡田古墳群と称す。

五世紀後半、榛名山を神奈備山と崇め東南麓に広大な水田を開拓したる大王あり。
現存する前方後円墳三基はまさに上毛野国の歴代大王の眠る処。今回は薬師寺古墳
へ廻る時間なく割愛せり。備忘録。日を改め再訪、墳頂の実物石棺を確認すべし。

およそ一五〇〇年前に出現したる東国有数のクニは、五世紀末および六世紀初頭の
二度にわたり榛名山大噴火に見舞はる。その火砕流、土石流はクニに潰滅的な打撃
を与ふ。火山灰は厚く降り積もりて永くクニの存在を隠したり。近時、上越新幹線
敷設工事にともなふ調査によりクニの全容明らかとなり保存事業進む。日本のポン
ペイの名を得たる史蹟なり。また埴輪は質量ともに優れ、古墳文化解明に貢献す。


     
保渡田八幡塚古墳 
     
 形象埴輪配列区A区  墳頂部 大王の石棺(舟形石棺) 古墳 中島(祭祀場か) 


     
 井出二子山古墳立体模型  井出二子山古墳後円部全景  井出二子山古墳後円部墳頂
(一メートル下に大王の石棺)
     
古墳前方部より榛名山を望む  古墳 南西中島(祭祀場か)  中島に映る古代人の影
     
 竪穴式小石棺と住居



 畿内古墳めぐり

 平成二十五年四月七日(第一日)
25392歩

前夜は春の大嵐、都内に都市型洪水で冠水せる地域もあり。新幹線車中より
見ゆる風景も平穏ならず。暗雲の間時折晴天覘く。甕麿と共に無事京都着

   
 
 春の旅亀も手をあげ道連れに 


ホテルに荷を預け直ちに奈良を目指す。近鉄橿原線の車窓より畑中の古墳らしきものを見るや途中
下車す。田原本町に降り立つ。七世紀の古道下ツ道南北に走る。のち平城京の朱雀大路のモデルと
なれるとかや。倭(ヤマト)王権は権威の象徴として鏡を製作、支配の及ぶ地方首長に配す。田原
本は鏡工作集団の郷。鏡作坐天照御魂(かがみつくりにますあまてるみたま)神社その故地に建つ。

   奈良県磯城郡田原本町  
     
 近鉄橿原線車窓より見る古墳?  田原本町魚町商店街  下ツ道(奈良盆地を南北に走る直線の古道)
     
 鏡作神社  特定郵便局

奈良盆地を吹き荒るゝ風をつき弥生時代の唐古・鍵遺跡を訪ふ。田原本町の古き町並を抜け寺川を渡る。国道24号の西に出て蛙鳴く田圃の道を行き、遙か彼方の竹藪の中に楼閣を見いだす。唐古遺跡より出たる絵画土器の描かれたる図をもとに復元したるものといふ。渦巻状の
屋根飾りに特徴あり。材料は藤蔓。弥生期の大規模環濠集落にありて
祭祀に用いられしものならん。唐古・鍵考古学ミュージアム所蔵の絵画土器はいづれも弥生人の生活を知る貴重なる資料、奉仕にて説明を担当せる紳士識見豊富にして郷土愛深し。謝して再び田原本町駅へ。

     
               まぼろしの弥生楼閣よもぎ餅                国指定 唐古・鍵遺跡 
     
 唐古・鍵考古学ミュージアム   


京都のホテルの部屋に入り甕麿を留守番とす。醍醐寺の狂言開催時間迫る。タクシーを拾ふ。稲荷山下に開通せる高速道路は市内の渋滞を避け快適、醍醐寺山門に着くや会場の霊宝館に至る長蛇の列に驚愕せり。会場は満席。最後尾の席なれば舞台極めて遠し。唯一背後に人無き空間あるが救ひ、終演後霊宝館前に満開の枝垂桜を鑑賞す。是ぞ醍醐の花見なり。

   真言宗醍醐派総本山(京都市伏見区)  
     
 醍醐寺に曲舞めでし花の宴  
     
     
 太閤はいづれにおはす花天下


   
 「そうだ 京都、行こう。」JR東海 


 平成二十五年四月八日(第二日)
22593(通算47985)歩


天気回復。快晴。京都より大阪に出、大阪環状線を経て堺に向かふ。教科書所
載の仁徳天皇陵(航空写真による図像)を初めて実地に見る。古墳時代の象徴
ともいふべき前方後円墳にして国内最大規模を誇る。墳丘全長486m、前方305m、後円部直径249m、周濠含む東西の長さ660m、同じく南北840m、周2,718m、面積464,124㎡。長持形石棺、埴輪20,000個以上。三段築造、三重周濠。陪塚数12。

  大阪府堺市   
   仁徳天皇陵古墳(百舌鳥耳原中陵)礼拝所
 
     
     
     亀鳴くや仁徳陵に齡経て

仁徳天皇陵に隣接する大仙公園。陪塚の古墳散在。
各種の古墳様式あり。園内広大古墳探し困難なり。
茶亭によもぎ餅を求め昼食の代用とし一時休憩す。

     


     
 孫大夫古墳/大仙公園  
     
 竜佐山古墳/大仙公園  


   
 旗塚古墳(帆立貝形古墳)/大仙公園 
   
グワショウ坊古墳(円墳)/大仙公園  
   
 七観音古墳(円墳)/大仙公園 

大仙公園を抜け、履中天皇陵を目指す。市街地に存在する古墳
なれば方角定め難し。周濠に沿ひて行くも途中より道は陵を離
る。迷走しつゝ漸く礼拝所に至る。筋肉痛に加へ空腹耐へ難し。

   履中天皇陵古墳全景  
   
   履中天皇陵古墳(百舌鳥耳原南陵)礼拝所  
     


河口慧海は仏教学者・チベット探検家。慶応二年(1866)和泉国堺山伏町に生を享く。家業は樽桶製造業。『釈迦一代記』を読み感動、生涯釈迦を師と仰ぐ。苦学して哲学館(現東洋大学)を出で、宇治の黄檗山で一切蔵経を読むうちチベット行きを決心す。明治三十年(1897)六月神戸出帆、時に慧海三十二歳。当時チベットは鎖国。インドでチベット語習得後、身分を隠し日本人として初めてヒマラヤ山脈を越え潜入、首都ラサのセラ寺に学び明治三十六年(1903)五月帰国。翌年『西蔵旅行記』出版。明治四十二年(1909)には英訳本《Three years in
Tibet》刊行。チベットの仏教・地理・習俗を国内外に伝ふ。第二回チベット旅行も果たす。昭和二十年(1945)歿。清学院は慧海が幼時学びたる寺子屋。


   清学院(堺市立町家歴史館)
国登録有形文化財
 
   
   河口慧海像
南海本線七道駅前
 
     
 日本チベット学の祖 河口慧海顕彰碑  チベツトを慧海に知りぬ雁帰る  河口慧海生家蹟(和泉国堺山伏町)

堺は古代史上の仮説河内王朝の本拠地。くだって中世は環濠
めぐらせる自由経済都市、さらに織豊期は鉄砲・茶の湯で歴
史にその名を留む。近代に至りて歌人与謝野晶子を生めり。
河口慧海の生地和泉国山伏町は現在大阪府堺市北旅籠町西。
明治初頭まで寺子屋なりし清学院、隣は鉄砲鍛冶屋敷なり。
古き町並の奥に入り人に問ひてやうやく慧海生地蹟を知る。
びいどろ工房あれば手製の耳飾り求む。古代然たる佳品也。

     
 
   七まちびいどろ(ガラス細工工房)  



平成二十五年四月十日(第三日)
28347(通算76332)歩


好天、畿内古墳めぐり最終日。京都より近鉄で奈良天理へ、駅前でタクシーを拾ひ一路箸墓古墳を目指す。運転手問ふ「邪馬台国は大和か九州か」答ふ「蓋し大和なるべし」又問ふ「箸墓は卑弥呼の墓なりや」答ふ「然るべし」
彼に喜色あり。幼時よく遊びし所といふ。後円部附近にて下車。村道古墳を囲繞、道端に陽気に誘はれし蝶舞ふ。礼拝所を経て大池より三輪山とともに全景を撮影す。

     
   焼立みたらし団子 一串七〇円也  

    箸墓古墳/巻向古墳群  
     
 蝶追ひて卑弥呼の墓を巡りけり 倭迹迹日百襲姫命大市墓礼拝所   黒小路甕麿の参拝
   
 三輪山とJR万葉まほろば線  箸墓古墳全景(大池より望む)  箸墓古墳(後円部)と三輪山


ホケノ山古墳はJR万葉まほろば線の反対側なれば割愛、桜井市埋蔵文化財センターに向かふ。あらうことか月火曜日は休館日。三輪神社門前にて招く食堂の女将あり。入りて三輪素麺を注文すれば女将よく三輪山麓の暮らしを語る。幸ひ本日は春の大祭なればよろしく見物されよと。亭主また古代史に関心あり。兼て用意せしものか各種地図資料手渡さる。

     
 田圃で遊ぶ兄妹(遠景)  三輪山遠望  三輪神社一の鳥居
     
 春の大祭(例祭)若宮神幸祭の神官が行く  NHKテレビの大祭取材光景  祭礼馬(四頭)用の移動厩舎


 山の辺の道に入る

     
 レンゲ畑  朝掘りの春の筍夢の跡  菜の花畑
     
 授粉する人の身動ぎ梨の花  まほろばに三山眠る春霞  桧原神社門前の柿若葉

   
   
 玄賓の庵は近し椿咲く   柿若葉山の辺の道曲がるごと
   
 万葉歌碑「巻向の 山邊響みて 行く水の みなあわの如 世のひと吾は  柿本人麿」/市原豊太書
ひもすがら青垣歌ふ世の雲雀   稲子麿
   
 菜の花に白きもまじる山の畠  「神籬」(ひもろぎ) 

 
 
 野外無人販売店(全品すべて百円))  渋谷向山古墳(景行陵)への道
     
青垣山(龍王山)遠望 

三輪山麓の山の辺の道より巻向川に沿つて下り三輪王朝の大規模前方後円墳たる景行・崇神天皇陵を巡検。青垣山の主峰龍王山は
新緑に包まれ、時を超え、静かにまほろばの地を見下ろしたり。

     
 渋谷向山古墳(景行陵)/柳本古墳群 
   
 景行天皇山邊道上陵礼拝所 

     
   上の山古墳/柳本古墳群 

   
 大和天神山古墳/柳本古墳群 

   
  行燈山古墳(崇神陵)全景/柳本古墳群   
     
   崇神天皇山邊勾岡上陵礼拝所  
     


     
 
 黒塚古墳/柳本古墳群 

     
春の暮まほろば線の無人駅    
     

   
 運転室の窓に映る夕陽  奈良盆地の落日  JR奈良駅ホーム


 平成二十五年四月十一日

   
平成梅干新墳(前方後円墳・雑穀米粥周濠)航空写真/東京都文京区関口・帰京翌朝膳

 朝日新聞(平成二十五年四月十一日付夕刊)

 陵墓出土の埴輪 13点展示
「発掘された日本列島」
全国を巡回へ

 歴代の天皇や皇室の祖先の墓として宮内庁が管理する陵墓や陵墓参考地から出土した埴輪13点が、1年近くかけて全国で展示されることになった。6月から始まる「発掘された日本列島2013」(文化庁など主催、宮内庁共催、朝日新聞など協力)で、来年2月まで各地を巡回する。一時的に博物館などに貸し出されることはあったが、これだけ多数の埴輪が長期間、全国を回るのは初めて。                                
 展示されるのは、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説があり、今年2月に歴史・考古学系15学会による立ち入り調査が行われた
箸墓古墳(奈良県桜井市)の壺形の埴輪=写真①や、国内最大古墳の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)で
出土した巫女をかたどったと思われる埴輪=写真②
など。         
  陵墓でみつかった埴輪には国宝級のものもあり、宮内庁によると「運搬や管理が大変で、巡回展示する機会がなかった」という。これまでの調査結果を多くの人に見てもらおうと、巡回を決めたが、担当者は「このような機会は、最初で最後かもしれない」という。(藤井裕介、写真は宮内庁提供)                 


平成二十五年四月十三日
 三鷹古墳めぐり
17780歩


東京都大田区荏原台古墳群巡検に次ぐ東京都内古墳めぐり。畿内の大規模古墳に
比し無名の古墳なり。しかし天文台構内古墳は他になし。野川沿の横穴式古墳群 もまた杳として所在地知れず。天文台・飛行場の地になほ古墳あり。脚下照覧。


     
 国立天文台 三鷹   
   
 第一赤道儀室 大正10年(1921)建設
国登録有形文化財
 第一赤道儀室南側緑地  上円下方墳(天文台構内古墳)

   
 口径20cm屈折望遠鏡
昭和2年(1927)カールツァイス社製
 施設老朽化による(見学当日は快晴))  太陽の黒点観測中の青年研究者

   
 東京都指定史蹟 出山横穴墓群第8号墓  出山横穴墓群第8号墓内部(羨門の石組と玄室)  出山遺跡のある崖(ハケ)
 
 野川  史蹟古墳案内表示板  武蔵野に古墳を探す日永かな 

 
  調布飛行場
 セスナ機の機影滑らす苜蓿


  平成二十五年五月一日
 チベットフェスティバルトウキョウ2013
東京都文京区 護国寺

             タシルンポ寺の歴史
タシルンポ寺は中央チベットの四大寺のひとつ。座主はゲルク派の精神的指導者パンチェン・ラマ法王。1447年、チベット第二の都市シガツェに建立。

インドのタシルンポ寺はダライ・ラマ法王14世の支援の下、1972年南インドのカルナカタ州に再建された亡命寺。今回は二十四名の僧侶が来日。砂曼荼羅・仮面舞踏チャム・声明を披露。

日本人初のチベット入国者河口慧海(慶応2年〈1866〉~昭和20年〈1945〉)は明治33年〈1900〉12月5日同寺に投宿したのち首府ラサを目指した。

        朝日新聞〈平成25年(2013)5月22日朝刊〉
           ■宗教の自由「中国後退」
米国務省は20日、世界各国の宗教の自由についてまとめた年次報告書を公表した。中国について、「政府の宗教の自由に対する尊重は、チベット自治区や新疆ウイグル自治区で特に後退した」として改善を求め、前年に続き「特に懸念すべき国」に指定した。    (ワシントン)

     
 護国寺仁王門  野外演奏会場  中央はチベットの歌姫パッサン・ドルマ
     
 仮面舞踊チャム  演奏会場  打楽器(シンバル 太鼓)奏者   歓迎の音楽 PHEP-SU
     
     
 墓場の主  DUR DAK 
   
 13種のチャム
CHAM NA CHUPSUM
 
   
牝鹿と水牛 SHA-MA 
     

   


 平成二十五年五月二日
 太田古墳めぐり
8459歩

女体山古墳は帆立貝式前方後円墳。この形式では日本有数の規模。天神山古墳の陪塚か。周濠は麦畑や野菜畑、民家の敷地となれり。古墳主体部に石の祠あり。最近ささやかなる祭祀
行はれし形跡あり。墳丘は柴山。雑木林の小枝を集め薪の束とす。古墳辛くも永らへたり。

太田天神山古墳は東日本最大の前方後円墳(墳丘全長210m)。利根川を挟み埼玉古墳群と
向かひ合ふ。本古墳は「武蔵国造笠原直使主と同族小杵と、造を相争ひて、年経るに決め
難し。」(『日本書紀』・安閑天皇)の笠原直使主の墓との説あり。なほ敵対せる小杵の
本拠地は多摩川古墳群のある多摩川流域に比定さる。いづれにせよ群馬・埼玉両県にまた
がる利根川流域に武蔵国の中心のありしこと容易に想像さる。現行行政上の地名は太田市
内ヶ島町天神。二重周濠の中に天神たる古墳を祀り現在に残したる謂はれ明白に示せり。

朝子塚古墳は前方後円墳。石田川流域にあり。四世紀末~五世紀初頭の築造の前期古墳。

 

 女体山古墳前方帆立部  女体山古墳後円部  帆立部より周濠部分を望む
 
 女体山古墳標識  前方後円墳主体部円墳頂部の祠  祠付近の祭祀空間
 

 天神山古墳前方部
つばくらに利根川近き古墳かな
 天神山古墳連結部  天神山古墳後円部
   
 円頂部に露出した葺石   天神社殿
 
 天神山古墳標識  前方後円墳円墳南裾部分を天神とする鳥居  前方部東縁に出没する雉
 雉鳴きて古墳の王に告げるとや

     
 朝子塚古墳標識  前方後円墳 後円部   前方後円墳 後円部より前方部を望む


 平成二十五年五月三~四日
 新潟遠征

 

  御神木讃歌 良寛
 彌彦神社本殿
暗雲垂れ込める山頂
 彌彦神社と甕麿の託宣
天候次第に恢復せん
 
 彌彦山頂より佐渡島を遠望  
     
     
天候急激に恢復 彌彦山腹にハンググライダー族活動開始  日本海より吹き上げる風を受け紺碧の空を舞う
薫風やハンググライダーつぎつぎと 
     
 残雪の頸城山脈    上越市清里区坊ヶ池より米山を望む
     


 平成二十五年五月四日
さきたま風土記の丘
火祭
 

さきたま風土記の丘再訪。二月九日以来三ヶ月振りなり。埼玉県名発祥の地であり、古代史上に隠れなき稲荷山古墳(国宝金錯銘鉄剣発掘)の存在を誇りとする地元の熱意より生まれたる企画なるべし。古墳の維持保存と啓蒙に方向を示したり。火祭の内容には尚一層の深化を期待す。

       
 臨時駐車場(二子山古墳周濠部)  火祭りを待つ人々  闇に浮かぶ神殿  
 
 火祭りイベント参加者はおよそ二百五十名  新しき大王妃
 さきたまに火祭あらた五月の夜
 先生に引率された地元中学参加者  
       
 炎上する神殿  丸墓古墳を下る火の行列  稲荷山古墳を下る火の行列  
   
 本格的考証による武装をした参加者  火祭の最後を告げる花火  夜店裏  


平成二十五年五月五日
 吉見古墳めぐり
2804歩
 

明治二十年(1887)当時東京帝国大学大学院生の坪井正五郎
により発掘調査さる。坪井は人類学の立場より百穴をアイヌ
説話の小人Koro-pok-kur(「蕗の下の人」)の
住居跡として一石を投じたり(文献上は先住民の土蜘蛛の穴
居に比定)。現在は六世紀末より七世紀全般にわたり造営さ
れし横穴式集合墳墓とするが定説なり。明治二十四年(1901)
十一月に正岡子規来訪。句碑は子規自筆をもつて再現とあり。


子規年譜(『子規全集』第二十二巻)
○同年十一月上旬『猿蓑』『三傑集』を読み感ずるところあり、句材を求めて三日間の武蔵野旅行に出かける。蕨の駅で菅笠を
求める。(この笠は後永く子規庵の柱にかけられる)忍、熊谷、川越を回り吉見の百穴を見物して帰る。熊谷の小松屋、川越の
今福屋にてそれぞれ一泊。この吟行で写生に開眼する。

『寒山落木』巻一 冬(『子規全集第一巻』)
  松山百穴
 神の代はかくやありけん冬籠
 笹の葉のみだれ具合や雪模様
 しばらくは笹も動かず雪模様

子規の一句「神の代は」坪井のコロポックル説の影響ありけん。


     
 吉見百穴標識  若葉風コロポツクルの窓開く  稲子麿  
     
   黒小路甕麿の穴籠  神の代はかくやありけん冬籠  子規



平成二十五年五月二十五日
天皇陵に関する新聞報道

本年二月、上毛の地に前方後円墳をたづねし折
その昔「古き墳はすかれて田になりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき」と嘆く法師もありけり。消滅したる古墳無数。われら墳墓の上に暮らす。
春望や古き大墓すかれざる
の一文をものす。
いま考ふるに兼好も余も「すかれざる」古墳を慕ふ情あり。帝王の理想を知らぬ者といふべし。さりながら天武・持統合同陵の盗掘されし際の記録「阿不畿之山陵記」(文暦二年<1235〉)は「其の所を知らざらしめむこと」の難しさと「金・銀・銅・鉄を蔵むること無」としつつもそれを果たさざりし実態を示したり。
 万緑や御陵に闇は深々と


 詔して曰はく「朕聞く、西土の君、其の民を戒めて曰へらく『古の葬は、高きに因りて墓とす。封かず樹ゑず。棺槨は以て骨を朽すに足るばかり、衣衿は以て宍を朽すに足るばかり。故、吾、此の丘墟、不食なる地を営りて、代を易へむ後に、其の所を知らざらしめむことを欲す。金・銀・銅・鉄を蔵むること無。…」(孝徳天皇大化二年『日本書紀』)

上掲、大化の薄葬令は魏志、武帝紀・文帝紀に拠りて大規模なる前方後円墳に象徴されし古墳時代の終焉を告ぐ。以下記事中の八角形墳いづれも薄葬令に基づく築造といへり。

 
     朝日新聞
(平成25年5月25日)

大化改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)の母、斉明天
皇(594~661)の墓と有力視されている奈良県明日香村の
牽牛子塚古墳(国史跡)について、村教委は24日、発掘調
査書を発表した。築造に延べ2万人の労働者が携わったと
推定。被葬者の権威を示すもので、「斉明天皇の墓説」を
さらに補強する内容だ。
 
       東京新聞(平成25年5月25日)


宮内庁が管理する奈良県明日香村の天武・持統天皇合同陵(七世紀後半)で
行われた過去の調査記録を同庁が論文にまとめ、天皇固有とされる「八角形
墳」で五段重ねの構造と結論付けた。鎌倉時代の盗掘記録などから八角形説
は通説だったが、同庁が詳細な墳丘構造を公表するのは初めて。

 ※墳丘は牽牛子塚古墳と同じく凝灰岩の切り石で覆われていた。
     


 平成二十五年六月二日
  上野公園古墳めぐり
   6140歩
  


上野公園内に前方後円墳あり。摺鉢山古墳といふ。平成六年に
台東区教育委員会の設置したる標識は現存長七十m、後円部径
四十三m、前方部幅は最大部で二十三mと記す。かつて墳上に
鎮座せし五條天、清水観音は公園内の別の地所に移転。現今も
摺鉢状保持、長椅子数基設くるに涼求むる人々来たりて坐す。

 木洩れ日の新樹の山は古墳にて


 原史時代に入ると上野台は等しく引き続ひて民衆の多く住まつて居つたと見え、当時のオクツキたる
 古墳が残つて居る。けれども惜しいかな、多くは破損せられ、取り去られ、今は僅かにその痕跡が一
 凸起が認めらるゝのみであるが、尚ほ嬉しいのは一つ確かに所謂摺鉢山が残つて居る。之は武蔵野及
 び其の附近に特有な無石槨古墳であつて其の形式はもとは前方後円の古墳であつたであらう。此の古
 墳は上野台地の殆んど中心地に存在する様で、小墳は恰かも之に隷属して居るが如くである。さうす
 ると摺鉢山のオクツキは、此の高台と最も関係ある権力者、威力者を葬つたものであつて、這は彼の
 芝公園丸山の前方後円の古墳に相対するものであらう。

                            鳥居龍蔵『上代の東京と其周囲』(昭和二年<1927>)


   
      前方後円墳 前方部        上野公園摺鉢山古墳標識       前方後円墳 後円部


   
 摺鉢山古墳の北にある正岡子規記念球場 
 梅雨晴や子規の遊びし球戯場

〇ベース、ボール勝負附
三月二十一日午後、上野公園博物館横空地に於て興行せし球戯の番附ハ
  ※番附割愛す(番附表に 赤/正岡/C とあり。子規は赤軍捕手ならん)
此日ハ朝より小雨のふりいでたるに 一時ハ皆延引せんといひたれども 佃氏の主張により又々気を取り直して身軽に支度をと
ゝのへ 午飯後上野公園に向ひける、今年ハ例年よりも暖気強きにや彼岸桜は大方に咲きそろひし頃なれば 雨にもかゝはらず
公園ハ群衆の山をきづきたり。ボールを始めしや否や 往来の書生、職人、官吏 婦人など皆立ちどまりて立錐の地なし。然るに第五番頃の勝負に至りて 雨勢の少し増しけるにぞ 群衆は一人へり二人へり 終にあとかたもなくなりにけり、併し勝負全く終へて帰途に就く頃ハ雨も全く晴れにき、此日の遊びハ常盤会寄宿舎のベースボール会の第四の大会なるが 今年一月の頃施行せし時にくらぶれば皆非常の発達を現したり

〇一口話し(※ボール関連 抜粋)
一 お前ボールはどこへあたつたのだ、伊藤ても泰然としとるねへ
一 けふボールを打たうと思つたのに、これでは雨天ねへ
一 オイ、ボールを打つなら、たまにはいゝのをよこしてもいゝじや、アヽこんなに強いのはたまらない
                                   正岡子規「筆まかせ」(明治二十三年<1890>)
※明治二十三年<1890>政府主催第三回内国勧業博覧会(四月一日~七月三十一日)於上野公園


〇ベースボールに要するもの  は凡そ千坪許りの平坦なる地面(芝生ならば猶善し)皮にて包みたる小球〈ボール〉(直径二寸許りにして中は護謨、絲の類にて充実したるもの)投手〈ピッチャー〉が投げたる球を打つべき木の棒〈バット〉(長さ四尺許りにして先の方稍々太く手にて持つ処稍々細きもの)一尺四方許りの荒布にて坐蒲団の如く拵へたる基〈ベース〉三個本基〈ホームベース〉及投手〈ピッチャー〉の位置に置くべき鉄板様の物一個宛、攫者<キャッチャー>の後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半、幅二三間位)競技者十八人(九人宛敵味方に分るゝもの)審判者<アムパイア>一人、幹事一人(勝負を記すもの)等なり。
    

〇ベースボールの球  ベースボールには只一個の球<ボール>あるのみ。而して球は常に防手の手にあり。此球こそ此遊戯の中心となる者にして球の行く処即ち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く。されば防手九人の目は瞬も球を離るゝを許さず。打者走者も球を見ざるべからず。傍観者も亦球に注目せざれば終に其要領を得ざるべし。

                                  正岡子規「松蘿玉液」(明治二十九年<1896>)

※明治二十九年(1896)六月十五日 19:32  東北三陸沖大震災発生。マグニチュード8.2-8.5  死者行方不明2万人余。

※平成二十三年(2011)三月十一日 14:46  東北関東大震災発生。 マグニチュード9.0。   死者行方不明1万8千人余。


     
 国立科学博物館  国立科学博物館【特別展】
 The Great Journey
グレートジャーニー 人類の旅
 科学は、世のため、人のため。
東京理科大学

     
  日本チベット学の祖 河口慧海が
 在家仏教を唱道した雪山精舎の地
     河口慧海がチベットに持参した宝丹は現在も販売されている。 
     
   根津の店 串揚げ「はん亭
  大正六年<1917>築の木造三階建
     国指定重要文化財
池之端仲町の店 
守田宝丹本店前「いろは横丁」
 


平成二十五年六月四日
 下総古墳めぐり
(芝山・龍角寺古墳群)

   17294歩
    


千葉東金道路の松尾・横芝I・Cを出で左折、芝山はにわ道に入り
北総台地の中央に位置する芝山町に町立芝山・はにわ博物館を訪問。
昭和56年(1981)早稲田大学が地元住民の参加協力を得て発掘せし
殿塚古墳・姫塚古墳より数々の出土品あり。とくに墳頂及び中段テ
ラスの形象埴輪の配列が注目され古墳と埴輪の関係に論議巻起こせ
り。前方後円墳は首長(国造)の葬送を再現し合はせて新首長の支
配権掌握を告知する場としたりとするの説最も有力なるか。その後
芝山町は町起こしに「はにわ祭」を企画、平成24年秋で開催30周年
を迎へ、降臨の儀を殿塚・姫塚、交歓の儀を芝山仁王尊、行列の儀
その他を芝山公園で挙行しけり。本年は11月第2日曜に開催といふ。


     
 
  芝山・はにわ博物館への道
上空に成田空港を離着陸する旅客機飛び交う
芝山公園(はにわ祭会場) 
町立芝山・はにわ博物館前
 馬子と馬の埴輪
     
 人物埴輪 上/下総型埴輪陳列
下/古代衣服の復元
 「はにわ祭」歴代ポスター


     
はにわ道にある殿塚・姫塚入口の標識  殿塚・姫塚古墳標識    殿塚(前方後円墳)後円部墳頂
  「はにわ祭」降臨の儀 会場
 
殿塚 後円部墳頂より前方部を望む
こもりくの古墳は黙す日の盛り
 殿塚 前方部より後円部墳頂を望む  殿塚 周濠(二重周濠の内濠)
 殿塚のキジ姫塚に消えにけり
 
 姫塚(前方後円墳) 姫塚 後円部墳頂
うつせみの雉姫みたり草の塚 
姫塚 後円部墳頂より駐車場を望む


房総風土記の丘および龍角寺古墳群

   
 風土記の丘資料館  竪穴式住居  風土記の丘敷地内・龍角寺古墳群79号墳
     
 資料館玄関展示コーナー  資料館玄関前展示 瓢塚41号墳石室 
     
 動物埴輪  資料館玄関前展示 龍角寺古墳群108号石室 



 「千葉県立房総風土記の丘●岩屋古墳」 
資料館にて購入した絵葉書より転載)
航空写真画面の中央が方墳
現在は画面左下方の区画はすべて住宅化


     
国指定「岩屋古墳」が、方墳としては日本最大の大きさとして認定されたことを祝し、様ざまなイベントが開催されました。
この日だけは、特別に古墳に登ることができたため参加者全員で記念撮影を行いました。【撮影:4月6日】
(広報さかえ) 
   
岩屋古墳 横穴式石室Ⅰ
岩屋古墳 横穴式石室Ⅱ 補修中  古墳周濠のアザミに吸蜜する蝶 キアゲハ


   平成二十五年六月六日
     高田八幡古墳
 (穴八幡神社および光松山放生寺)
 
 
                  一陽来復と一陽来福

 東京都新宿区早稲田に「一陽来復」守札の穴八幡、また境内相接し
 一字違ひ「一陽来福」守札にて穴八幡同様に金銭融通・蟲封じ祈願
 の真言宗放生寺あり。紛らはしき事情は両社寺に神仏習合の来歴あ
 ればなり。復福の白兵戦専ら穴八幡優勢なるをみて放生寺、こゝに
 「一陽来福」なる一筆啓上。曰く
       ◇       ◇       ◇
  天保年間、冬至前七日間真言密教による観音法の御祈祷をして、
 別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来今日に至るまで
 御修法を師資相伝継承し、冬至より節分迄の間授与しております。
 一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟
 知される所であります。
                        光松山放生寺
       ◇       ◇       ◇
 古老諸彦いづくにおはすや。やむを得ずしてこの辺りの者愚考す。
 鬱蒼たる前方後円墳、江戸郊外の開発にともなひ唯一本の松を残し
 墳丘を露出するに至れり。高田在の人々小さき祠もて八幡社勧請、
 村社とし宮守の僧を置く。この僧、庵を結ばんと墳丘を削平するに
 南斜面にありし横穴式石室を発掘、真偽不明なれど中に三寸ばかり
 の仏像坐すと喧伝。世の人、向後穴八幡といふ。神仏習合の典型と
 称すべき一挿話なりけり。
 別当(神宮寺)たる放生寺が天保年間に開始したりとする観音経に
 因む金銀融通「一陽来福」の守札授与の由来は尤もなれども一方、
 穴八幡の「一陽来復」もその包紙に記して
       ◇       ◇       ◇
 ○この御守は江戸時代の元禄年間から行はれた穴八幡だけに傳来す
 る長い傳統のある特別の御守であります。近年附近の社寺等で類似
 のお守を出して居る様ですが、当社とは全く関係ありません。御参
 詣の方は間違のない様穴八幡宮の御社殿でお受け下さい。
                       穴八幡宮社務所
       ◇       ◇       ◇
 いま両社寺の言分を聞くに伝統に於て社の元禄年間(1688~1703)
 は寺の天保年間(1803~1843)を凌ぐ。さりながら御守の由来では
 模糊たる前者に比し後者の根拠に一理あるか。
 冬至より節分迄の一陽復福の熾烈の祈祷、前方後円墳の遺跡に拠る
 社寺に群衆する善男善女の歴史認識ならぬ銭勘定の程いかならん。
 益なき駄弁、神罰仏罰蒙るも恐ろしければ最早閉口するに如かず。


 昔は茂りたる山なりしが、里人伐り尽して、ただ一もとの松のみ残れり。……日秋僧庵を
 結ばんと地をならすに、掘出したる山の底にちいさき穴あり、口狭く奥深くして、方九尺
 あまり、その中にて、たけ三寸ばかりの仏像石上に座したまへり。良昌これを守尊む、よ
 つて此処穴八幡と云、其穴今にあり。
                       『江戸砂子』(享保十七年〈1732〉)

     
穴八幡図 穴八幡図の左上山頂部分  左上山頂部分をさらに拡大すると
  良昌の「いほり」の描入が見える。
 

     
 穴八幡神社鳥居
(諏訪通り/早稲田通り 馬場下交差点)
 穴八幡神社拝殿  一陽来復の御守で信仰を集める穴八幡
    
穴八幡宮御由緒
御祭神 應神天皇・仲哀天皇・神功皇后
御祭禮 大祭九月十五日 夏祭五月十五日 春祭一月十五日

  康平五年(1062)奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折り、日本武尊命の先蹤にならってこの地に兜と太刀を納めて
氏神八幡宮を勧請し、永く東北鎮護の社として祀られました。

 寛永十八年(1641)宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時期から穴八幡と唱えられるように
なりました。同年この地に居住していた幕府の祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。この頃神木の松から
瑞光を放ち、色々奇瑞のあったことが、三代将軍家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮守として総営繕を命ぜられました。
                              (※文中の「神穴」は明らかに古墳の横穴式石室の開門部であることを示している。)
   
穴八幡図に示された神穴出現地
(横穴式石室開門部) 
神穴出現地前の門を再現(左図参照のこと)
(境内南側斜面 諏訪通り)
 横穴式石室の位置を示すか


     

穴八幡図
 別当(寺)と出現地(神穴)
當山由緒沿革
寺号威盛院光松山放生寺
宗派高野山真言宗 
 放生寺は寛永十八年(1961年)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田
八幡(穴八幡)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。
 
 
 
 一陽来福と蟲封じ祈願
 放生寺本堂   放生供養碑


  平成二十五年六月九日
   弥生二丁目遺跡
  (弥生式土器発掘ゆかりの地
     7261歩

 
        建碑のことば

  弥生式土器は、ここ向ヶ岡弥生町(現在
 弥生二丁目)内の数ヶ所から初めて出土発
 見され、町名を冠して「弥生式」と名づけ
 られました。             
  遠いむかし、人々はこのあたりに住みつ
 き、日本文化の曙を告げたのです。弥生式
 土器、向ヶ岡遺跡の発見によって、弥生時
 代という重要な文化期の存在が知られまし
 た。私たちは、こうした歴史の壮大で匂や
 かなロマンを憶い、ふるさとわが町の誇り
 を語りつぎ、出土と命名の史実を末永く顕
 彰するため、この記念碑を建てました。 
  昭和三十九年、行政措置によりこの町は
 弥生二丁目と変りましたが、町会名は歴史
 的な名を継承しております。      
   昭和六十一年夏 七月吉日     
           向ヶ岡弥生町会有志
               高橋石村刻
 

                       
                          弥生二丁目遺跡
              国指定史跡 昭和51年6月7日指定

  昭和50年(1975)、校舎の増築に先立ち考古学研究室が発掘を行ったところ、台地の緑に沿って
 弥生時代の集落を囲む環濠(空堀)の一部が発見され、壕の中からは食料にされたカキなど貝殻の
 層と弥生土器が出土しました。現在は大学の建物によって大きく損なわれていますが、この台地
 上に広く弥生時代の遺跡が存在したことになります。
  ところで、明治17年(1884)、考古学に興味を持つ東大の学生たちが、この付近で大昔の土器を
 採集しましたが、後にその種の土器は「縄文土器」と区別されることが分かり、最初の発見地の
 町名をとって「弥生土器」と呼ばれるようになりました。「弥生時代」の名称の由来です。土器
 が発見された正確な地点(当時、向ヶ岡貝塚と呼ばれた)については意見が分かれますが、この場
 所を含む集落遺跡に関連するに違いありません。その学史的、学術的重要性のため、増築計画は
 変更され、国の史跡として保存されることになりました。
  明治17年頃、このあたりは人家もない寂しい場所であったそうです。この地点にかろうじて残
 された段丘地形と雑木林が、わずかに当時の風景を偲ばせます。
 

上掲標識文中にある「考古学に興味を持つ東大生たち」の一人が
我が国の人類学の創始者坪井正五郎。同年大学院に進み吉見百穴
の発掘結果より日本先住民族コロポツクル説を唱へ明治草創期の
人類学に一石を投じたり。ここ向ヶ岡弥生は考古学の聖地なり。

     
工学部9号館裏(右奥に弥生二丁目遺跡)
            武田先端知ビルで見つかった方形周溝墓 

  浅野地区は、「弥生時代」の名称の発祥となった土器が、明治17年(1884)に発見された
 「弥生町遺跡」の一角にあたります。武田先端知ビル建設に伴う発掘調査(埋蔵文化財調査
 室、2001)で、弥生時代の方形周溝墓2基を検出しました。
  方形周溝墓は、弥生時代から古墳時代前期の墓の一種で、方形に溝をめぐらし、内側に低
 丘を盛上げ、その中央部に遺骸を埋葬する土壙を掘った墓です。方形周溝墓は、現地表面か
 ら3m地下の旧谷跡につくられました。前面に黒いタイルで、検出した方形周溝墓を実物大
 で示しました。方形周溝墓の上部は明治時代の開発に伴い削平されたため、遺物の一部は破
 壊されてしまいましたが、周溝とその周辺から弥生式土器(弥生時代後期後半)5点、土壙から
 副葬品のガラス小玉(紺22点、青色2点)、石製管玉(赤色4点)が出土しました。この方形周溝
 墓は、移築し埋蔵文化財調査室で保管しています。
  浅野地区では、「弥生2丁目遺跡」の調査(考古学研究室、人類学研究室、1975)で 環濠集
 落、全径間風洞実験室新営支障ケーブル移設その他に伴う調査(埋蔵文化財調査室、1996)で
 方形周溝墓が確認されています。
  これらの調査から、浅野地区から、浅野地区北東側に広がっていたと推定される、環濠集
 落の西側に営まれていた墓域の広がりを確認することができました。     
      武田先端知ビル入口


平成二十五年六月十五日
 隅田川
 

「すみだ川アートプロジェクト」に賛同し浅草に向かふ。その趣旨
「白魚が棲み、人々が泳ぎ遊べるような隅田川に再びなるために」
まことによし。隅田川に清流を取戻すこと容易ならざると知ればこ
そ芸術家連立上がる。かくして伊勢物語東下りに始まる隅田川抒情
芸術は新たなる創作者の参加を得てさらに発展深化すると見えたり。

     
 吾妻橋よりアサヒビル本社
&スカイツリーを望む
 「炎のオブジェ」
スーパードライホール屋上
 炎の母子(現代能「隅田川」)
梅若丸は小学3年生 サッカー少年
     
 すみだ川アートプロジェクト2013 江戸を遊ぶ「ないまぜや! 鶴屋南北
2013・6・15~7・31 アサヒアートスクエア

松尾芭蕉、延宝八年(1680)冬、日本橋小田原町の幕府御用魚問屋
杉山杉風の招きを受け深川に移る。はじめ草庵を泊船堂と称したり。
隅田川に小名木川の合流するあたりにして川風強く市街遠き所なり。
芭蕉庵いまは芭蕉稲荷神社なる小祠に跡を留むるのみ。その有様は
昨年五月十二日の深川吟行にて確かめ得たり。無能無才の翁いまに
あらば今日の大川いかに見るや。深川の地に古池はそも虚構なれど。

     
 浅草水上バス乗場  桟橋を渡る乗客  貸切大型水上バス「竜馬」船尾
     
 芭蕉庵史跡展望園(芭蕉像あり)
隅田川に小名木川の合流する所
 スカイツリー夕景    帆船

     
 スカイツリー夜景  シタール王子を知ってるかい ♪
ハイ にっこり笑って!
 冠の上には七色のカナリア
     
 太神楽(鏡味初音 鏡味味千代 桂たか治)  


 平成二十五年七月六日
さきたま古墳群

および若小玉古墳群

二月五月七月と隔月にさきたま古墳群訪問。こたびは総勢五人の視察団なり。
関越道を東松山ICで下り一路行田方面を目指せり。途中紆余曲折あるも正午近くに「さきたま風土記の丘」に到着。予期せぬことながらこの日関東地方に梅雨明け宣言発令さる。隣接の熊谷は日本最高気温の記録を有する酷暑の地。熱中症を恐れて茶店の一室を貸し切り行田名物なるフライを賞味しつつ消閑。
梅雨明や茶店出られぬ古墳旅 

古墳には捩花咲くと媼いふ

 亀よりも遅き歩みを日の盛り
その後古墳めぐり事前学習の名目で資料館に赴く。古墳公園内に登れる古墳は丸墓山と稲荷山の二基あれど諦め将軍山古墳の展示室を参観す。退館の際附近に八幡山古墳石室のあることを知り急遽受付にて略案内図を手に入れ転戦す。

    下図下方の大なる緑地帯「さきたま風土記の丘」。
   その上方にある横長の楕円形「八幡山古墳石室」。
   行田郊外は河川水路の交錯せる一大水田地帯なり。


 

 
 瓦塚古墳(前方後円墳) 六世紀後半築造  埼玉県名発祥之碑  二子山古墳 六世紀中葉(前方後円墳)
武蔵国最大級の古墳
     
 将軍山古墳(前方後円墳)石室展示室  将軍山古墳石室内部復元模型 将軍山古墳周濠部より 
稲荷山古墳(前方後円墳)主体部を遠望


○八幡山古墳石室は前中後の三室よりなれる16.7メートルの巨大横穴式石室。
 七世紀前半築造。秩父山塊の緑泥片岩を荒川の舟運にて搬送し石組せり。

 「関東の石舞台」の名を得たり。「聖徳太子暦」に出る武蔵国造物部連
 兄麿の墓に比定。若小玉古墳群の中心的存在。周辺は工場及び住宅地。
 この若小玉の石舞台(直径80メートルの円墳)は昭和9年附近の小針沼埋立
 工事のための封土削平に伴ひ露出。調査を重ね昭和19年3月県指定史跡。
 土日曜日には石室内部の見学可。当日は土曜日なれど既に時遅かりき。

 参考
○奈良県明日香村「石舞台古墳」は全長19.7メートルの規模。
 七世紀初頭築造。多武峰麓の花崗岩を冬野川の舟運にて搬送し石組せり。

 「日本書紀」推古天皇34年(626)5月の記事
   夏五月の戊子の朔丁未に大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。
   大臣は稲目宿禰の子なり。性、武略有りて、亦弁才有り。
   以て三宝を恭み敬ひて、飛鳥河の辺に家せり。
 により蘇我馬子の桃原墓に比定。

 明日香の石舞台(一辺50メートルの方墳)は江戸時代中期の「大和名所絵図」
 に既に石室の一部露出せる様を写されける国指定史跡。現在は柵を廻ら
 し厳に登頂を禁ず。そのかみ舞台より飛降り骨折せし教師あればにや。
夕涼や飛び降りもなき石舞台 


     
八幡山古墳石室標識   八幡山古墳石室全景
地元子女の絶好の遊び場
古墳石室上に君臨する一少女
 日傘なき卑弥呼の遊ぶ石舞台
 
石室内部 Ⅰ  石室内部Ⅱ
八幡山の名称の元となったと思われる小祠
 石室内部Ⅲ
     
 石室開口部  石室側面の石組 墳頂部天井石より開口部方向を見下す
     
なにごとも下りが肝心ぢゃ 
ソロリと参ろう 
  ようござった 近う寄れ
石舞台のぼればすぐに夏芝居
 人がのぼるなら我ものぼろう 
ヤットナ



平成二十五年七月十一日 

 

  発掘された日本列島 2013

    新発見考古速報
   
   東京都江戸東京博物館
 (平成25年6月8日~7月25日)

  特集①陵墓の埴輪

   特集②東日本大震災の復興と
     埋蔵文化財保護


   
 今年度は宮内庁と共催で「陵墓の埴輪」と題したテーマ展示を行います。
陵墓は、宮内庁によって管理されており、陵墓の保全に伴う考古学的な調
査も行われています。その一環として実施された御廟山古墳における宮内
庁と堺市の同時調査では、多数の埴輪が出土するなど、幾つもの重要な成
果が得られました。今回はこの成果の一部から、これまで陵墓から出土し
た埴輪のうち主なものを展示することにいたしました。このような埴輪が
一堂に会し、しかも全国を巡回するのは初めてのことであり、国民の皆様
にとっても、極めて重要な機会になると考えます。          
          

                      文化庁長官 近藤誠一

 
 囲・家形埴輪(御廟山古墳出土)


      ※参考   朝日新聞(平成二十五年四月十一日付夕刊)記事

 展示されるのは、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説があり、今年2月に歴史・考古学系15学会 による立ち入り調査が行われた
箸墓古墳(奈良県桜井市)の壺形の埴輪=写真①や、国内最大古 墳の大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)で出土した巫女をかたどったと思われる埴輪=写真②など。


   
  手前  壺形埴輪(箸墓古墳出土) 
    箸墓古墳(奈良県桜井市)
    の壺形の埴輪=写真①

  奥   盾形埴輪(日葉酢媛命陵出土)
 陵墓出土埴輪群      蓋形〈きぬがさがた〉埴輪
    (応神天皇陵古墳出土)
     
  奥  円筒古墳(女狭穂塚古墳出土)
 手前 肩甲付短甲形埴輪(女狭穂塚古墳出土)
       人物形埴輪〈女子頭部〉
    (仁徳天皇陵古墳出土)

 大山古墳(仁徳天皇陵、堺市)で出土した
 巫女をかたどったと思われる埴輪=写真②
       馬形埴輪〈頭部と鞍部〉
     (仁徳天皇陵古墳出土)
     
   
          縄文式土器    装身具(手前中央は翡翠製勾玉)              弥生式土器
     
        祭祀具 木製人形その他      手前中央はミミズク土偶
     (縄文時代後期後葉)
      「稻万呂」銘 墨書土器



平成二十五年八月二十九日  

古来「信濃の国は十州に境連ぬる国にして」(長野県歌『信濃の国』)とある如く
上野・武蔵・甲斐・駿河・遠江・三河・美濃・飛騨・越中・越後の十ヶ国と峠もて
往来したり。信濃の国の前身は科野(しなの)。かの国の大王の古墳群にひときは
威容を誇る森将軍塚古墳は古墳めぐりの行脚以来憧れしものなりければ現地到着前
にして走行車中より有明山尾根上に発見するや興奮するを禁じ得ざりし。

 

Mori-Shogunzuka Museum Chikuma City

 The Mori-Shogunzuka Museum shows many imprortant aspects and
excavations of the Mori-Shogunzuka Tumulus, since the internal burial
facilities of this mound were re-buried after the excavation and remained inaccessible to visitors of the site. A reproduction of the main burial chamber
and actual or reproductions of funerary objects that were deposited with the
dead in the mound are displayed here. Some visual aids, such as videotapes,
also assist your understandind about this mound.
                              (Mori-Shogunzuka Museum)

 

      森将軍塚古墳館観覧券

俯瞰図を見るに有明山の急峻なる尾根上にあり。
前方部より後円部を貫く中心軸は20度ずれたり。

   
 千曲市森将軍塚古墳館   教科書にのった森将軍塚古墳
   
 「北の英雄 アテルイ伝」 撮影地  信濃路や太古の空に鰯雲  猛禽ノスリ(画面中央の枝上)
有明山の登山路にて地元の人指さす

Historic Site Mori-Shogunzuka Kofun

 The Mori-Shogunzuka Kofun in Chikuma city, Nagano prefecture
is a keyhole-shaped tumulus(so called Zenpo-Koenfun), measuring about 100 meters long. It was built in the late 4th century. The floor
space of a pit-style burial chamber is presumed to be one of the largest in Japan.
 The tumulus was excavated completely, repaired, and rebuilt in its
original shape in 1992, based on the clarifications flom 11 years of
excavations.
                       (Mori-Shogunzuka Museum)

現千曲市(旧更埴市)の埴科古墳群に四基ある前方後円墳の一にして有明山の尾根上に位置す。
後円部は楕円形。四世紀末築造にて県下最大、墳長100メートル。後円部墳丘下の竪穴式石室は
東日本最大級。ヤマト政権の支配下となりしことを証明する古墳様式。墳頂の地下に大王眠る。

     
     
 段丘の埴輪列(一)  全丘葺石の威容   前方部より後円部へ
     
4号墳 埴輪棺    段丘の埴輪列(二) 3号墳 横穴式石室(6世紀)


     
後円部墳頂下 竪穴式石室(石槨)原寸大復元模型   竪穴式石室(石槨) 
     
 出土品展示コーナー 3号墳 組合式石棺出土品(装飾具)   出土品(刀剣/矢)


平成二十五年八月三十日 

 茅野市尖石縄文考古館

八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘の功労者は宮坂英弌なり。
戦前尖石遺跡を独力で発掘、日本で初めて縄文集落の
全容を解明。戦後尖石縄文考古館初代館長となり考古
学の普及発展に貢献せられたり。

 

     
 尖石  尖石史跡公園  与助尾根遺跡
   
 土偶  土竜王の新円墳? 斑猫」またの名は「みちおしへ」


     

国宝(平成7年指定)
土偶「縄文のビーナス」正面
縄文時代中期 棚畑遺跡出土
高さ27cm 重さ2.1kg



 国宝土偶「縄文のビーナス」裏正面
 「縄文のビ―ナス」出土現場写真
   

 重要文化財(平成18年指定)
「仮面の女神」正面

縄文時代後期 中ッ原遺跡出土
高さ34cm 重さ2.7kg

 出土品(縄文土器)   出土品(打製石器/磨製石器)



 信濃国一之宮 諏訪大社

四社
上社本宮 上社前宮
下社春宮 下社秋宮

              
               國譲り神話と諏訪大社

 天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を従えて出雲國の伊那佐の浜にくだった建御雷神
(たけみかづちのかみ)は大國主神(おほくにぬしのかみ)と國譲りの交渉を進めた。
最後まで抵抗したのは力自慢の建御名方神(たけみなかたのかみ)であったが、力競べ
で手玉に取って投げつけるとかなわぬと見て逃げ出した。

 故(かれ)、追ひ往(ゆ)きて、科野國(しなののくに)の州羽(すは)の海に迫(
せ)め到りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神白(まを)ししく、「恐(かしこ)
し。我(あ)をな殺したまひそ。此の地(ところ)を除(お)きては、他(あだし)処
(ところ)に行かじ。亦我が父、大國主神の命(みこと)に違(たが)はじ。八重事代
主神(やへことしろぬしのかみ)の言(こと)に違(たが)はじ。此の蘆原中國(あし
はらのなかつくに)は、天(あま)つ神の御子(みこ)の命(みこと)の随(まにま)
に献(たてまつ)らむ」とまをしき。
               (『古事記』上巻)


文中の科野國は信濃國の旧名。州羽は諏訪。
出雲も諏訪もヤマト政権に服従したことを
示す神話である。
下社秋宮附近の青塚古墳が前方後円墳であることもその事実を傍証。


     大國主社(摂社)
     御祭神 大國主命

諏訪大神の御父神である大國主命を祀る社で古事記によれば諏訪大神建御名方神は大國主命の第二子としている

 諏訪大社上社本宮

     
 神楽殿大太鼓  本宮二之御柱  改修中の拝殿


  諏訪大社下社秋宮

     
神楽殿    秋宮一之御柱 秋宮三之御柱


諏訪大社下社春宮 

     
  鳥居  拝殿  春宮一之御柱


 

下社秋宮附近の市街地にありければ標識
にある如きロマン感じ得ず。古墳保存は
周辺景観も重要かつ不可欠。さればこそ
将来においても至難事なること必定なり。

   
 青塚古墳標識  後円部石室前面  石室開口部
     
 石室天井石  くびれ部の祠より前方部を望む  後円部墳頂


平成二十五年九月二十二日
根津神社例大祭
  

   
   

   
     八重垣の人ふきぬけて秋の風
     
   神輿行くヤマトタケルの秋祭    
 
音頭取かざす手見れば秋高し 


 平成二十五年十月九日
逗子秋景


湘南に雅人あり。招かれ鎌倉を過ぎ逗子の地に降り立つ。
駅近く火の見櫓聳ゆ。脚下のバス停その名「火の見下」。
十月の往還一路今昔 
五霊神社の裏に閑居あり。亭主の庭造り細心にして大胆。
朽木のよく茸養ひ得たるを見て客人その野趣を愛でけり。
一座の才媛は無垢なる仕草よろしく青蜜柑をむく二歳児。
清談に時の過ぐるを惜しむに風騒ぎて柿落葉しきりなり。
 海昏れて逗子鎌倉の野分かな 


     
 天高し火の見櫓の小さき町  火の見下バス停で聞く秋の声  旧式のポストに白き花芙蓉
     
 こゝにまた古社のしるしや大銀杏  精霊のバツタ飛び立つ坂の道  亭主談うなづく客に柿落葉
   
すがたよき茸なり食はせものなり   ひたむきに青蜜柑むく二歳かな   借景は古墳に似たり庭の秋


 平成二十五年十月十八日
歌舞伎座

  舞台にはとんぼがへりの群れとんぼ

     
 歌舞伎座新開場柿葺落興行
芸術祭十月大歌舞伎「義経千本桜
お目当ての新進歌舞伎役者 
ご挨拶 中村梅之改め中村梅乃
 正面入口の上の破風と櫓
秋澄むや歌舞伎座の破風定の紋 
   
 正面玄関  三階吹抜  地下鉄東銀座駅の団体客

     
 歌舞伎座斜向かいのアンテナショップ
 馬肥ゆる県を売り出すキヤラクター 



平成二十五年十月二十日
上州高崎吟行

8808歩


 去る三月上旬の下野上野古墳めぐり以来の高崎入りなり。
今秋は関東にも台風による被害(ことに直近の26号台風
による伊豆大島の土石流被害は甚大)頻発。相次ぎ発生
せる27号台風の影響で吟行当日の天候は雨の予報。ため
 に今回はJR高崎線各駅停車と群馬バスを利用し高崎到着。

群馬県は内陸県にして鉄道網脆弱。バス路線また需要に
対応できず。結果的に日本有数の自家用車保有率を誇り

 群馬ならぬ群車。群馬バス時刻表にその現実を知るべし。
かみつけの里2013古墳祭再現劇「王の儀式」公演は
小雨降り止まざれば急遽第2部「古墳でのマツリ」を博
 物館内に変更。聞けば昨秋も雨天とぞ。山の神怒れるや。


     
 JR高崎駅  群馬バス「秋葉前」停留所付近民家
かみつけや榛名は見えず葱畑

    群馬バス時刻表
(しんとう温泉・役場行き)
 高崎駅発   秋葉前発
 07:50    12:49
 09:50     15:04
 13:45    17:49
 

 朝日新聞10月31日付朝刊(追加参考漫画)

   
 古墳祭会場 かみつけの里博物館玄関
 こども獅子よんで古墳の秋祭
 祭囃子笛方五人衆
     
   
 はつぴ着て出番なき子の秋祭

     
 古墳周濠のコスモス
 王眠る塚をめぐりて秋桜
 二子山古墳
 コスモスや古墳の里に榛名雨
 八幡塚古墳
 葺石の古塚洗ふ秋驟雨
   
 再現劇「王の儀式」会場  大刀合わせの儀  古墳上の儀礼
     
 王と大刀  巫女の儀式
榛名山の方角に向かって祈る
 巫女への取材


 平成二十五年十月三十日
 六義園

             瓢の笛

兼題に瓢の実出されけり。机辺に置きしも家移りに失ひて久し。けふ噂を耳に六義園におもむく。松手入に余念なき庭園に茶店あり。椎の木・黄櫨等の諸樹に混じて見分け難し。

Distylium racemosum Sieb.et Zucc.(1841)俗に比与牟乃木といふ その木を伊須といふ        (『和漢三才図会』(1713))

一樹の幹にイスノキの標識あり。樹上樹下を見るにまさしく瓢の実。興じて一笛となす。

  瓢の実や落つれば拾ふ茶屋の前   
  瓢の実の六義をこえし形かな    
  瓢の実に孔おそろしき古代あり   
  ばうばうと瓢の実よ鳴れ息のま  

  瓢の実は巫女の口にも伊勢出雲   
   紅殻に染めて愛でけり瓢の笛    



     
   六義園庭園中島  
     
   イスノキ  
   
 樹上  樹下  樹下美人
     
 瓢の実    瓢の笛


平成二十五年十一月八日
上州渋川
奥利根上牧

     
関越高速道より榛名山を望む  群馬県埋蔵文化財調査事業団/発掘情報館  群馬県埋蔵文化財調査事業団(渋川市北橘町)
 
 武人埴輪の脚と現代人の脚  入館者に挨拶する埴輪 


   
平成24年11月 渋川市金井東裏遺跡より「甲を着た古墳人」が発掘され考古学界の関心を集めている。
明日は発掘更新情報の公開日で(※翌日NHKテレビでニュース放映あり)館内は準備で忙殺されていた。
     
 富岡市北茶臼山西古墳(4世紀後半)に割竹形木棺(模型)で直葬された首長。   円墳と埴輪


     
 さわってみよう!   勾玉と管玉
     
埴輪諸相 

高山村より水上町へ 「冬の虹」三句

   
 たまきはる憂き世に冬の虹吐きて  山峡の鉄路またぎて冬の虹 上牧や湯の宿に立つ冬の虹  

奥利根初冬

 利根川のみなもとは痩せ冬日向 

 平成二十五年十一月十六日
早州逗子葉山
長柄桜山古墳
14181

十一月十六日横浜市でかながわ考古学財団「20周年記念事業シンポジウム
「海浜型前方後円墳の時代(国指定長柄桜山古墳群をもとに関東地方沿岸
部の特性と汎列島的な同質性をさぐる)」開催さる。百聞は一見に如かず。
午後の講演受講を取り止め京急線にて一路逗子葉山の当該古墳群に向かふ。


     
 シンポジウム会場のあった横浜中心市街地  会場入口(会場は満席の盛況)    長柄桜山古墳群第1号墳より出土
   した円筒埴輪の実物展示(会場内)
     
 京急バス葉桜停留所待合室の案内板  長柄桜山古墳群案内図  長柄桜山古墳群第1号墳への道

 
 長柄桜山古墳群第1号墳標識板(抜粋Ⅰ)
         発見
 平成11年(1999年)3月地元の考古学愛好 家東家洋之助さんが、携帯電話アンテナ
 工事のために伐採整地された山頂で埴輪
 の破片を発見し、古墳であることがわか
 りました。

  古墳保護のため立入禁止となっている
  墳丘。後円部口径52.4m、墳頂部中央
  に長さ7m、幅1.6mの埋葬施設陥没坑が
  確認されている。
  午前中シンポジウム会場で展示されていた
 円筒埴輪の映像が標識内に紹介されていた。
     
 長柄桜山古墳群第1号墳標識板(抜粋Ⅱ)
         今後
平成23年(2011)3月に整備基本計画を策定しました。今後は同計画に沿って古墳が将
来にわたって末永く保存されるように整備
していく予定です。
          平成23年3月
  逗子市教育委員会、葉山町教育委員会
 1号墳と2号墳をつなぐ遊歩道の道しるべ   長柄桜山古墳群第2号墳

   
    長柄桜山古墳群第2号墳標識板(抜粋)
         発見
 平成11年(1999年)3月に第1号古墳が発見
 されてほどなく、県内の考古学研究者から
 この山も古墳ではないかと指摘され、同年
 6月に神奈川県教育委員会が試掘調査を行っ
 た結果、古墳と確認されました。
      長柄桜山古墳群第2号墳
 
 後円部墳頂周辺の葺石(ネットで保護)

 第1号古墳にはない。南斜面に稠密で
 あることから築造に際し外見上の工夫 
 があったと想像されている。両古墳の
 関係は不明。
  
   長柄桜山古墳群第2号墳西側より
  駿河湾を望む。江ノ島富士山まで
  視界に入れることができる。
  最近発見され海浜型前方後円墳と
  して本日開催のかながわ考古学財
  団の20周年記念事業シンポジウム
  の主役となっている。
 
 
 相模湾を望む前方部より後円部墳頂を望む  桜山の名にふさわしい老樹 平成十四年十二月十九日国指定
「史跡長柄桜山古墳群」文部科学省

     

                六代御前の墳墓の由来                昭和三十六年一月吉日
「六代御前墓」を彫りたる小碑は徳川幕府の末年に水戸藩士齊田三左右衛門の建てしものにして是れ六代御前の墳墓なり
按ずるに六代御前は桓武天皇十五代の後胤にして三位中将平維盛の嫡男小松内府重盛の嫡孫平相国清盛の嫡孫なり栄華を
極めたる平家全盛時代に生れ一門没落の際母と共に京洛菖蒲谷に匿れ潜みしが文治元年北条時政に因へられ東下して駿河
の千本松原に至り将に斬首に遭はんとせる際向に文覚上人の懇請に由りたる将軍源頼朝の赦免状到着によりて放免せられ
文覚上人に伴はれて高雄山洛西神護寺に入り剃髪して妙覚と曰ひ三位禅師と呼ばれ専心仏道を修めたり建久五年六代御前
の妙覚は文覚上人の添書を齎して鎌倉に赴き大江広元に就きて情を陳べ思を謝せしに頼朝も深く重盛の旧恩を追懐し厚く
之を待遇したり然るに正治元年文覚上人不軌を図り発覚して流罪に問はるゝや六代御前も捕へられて関東に送られ田越川
の畔に於て処刑せられたり行年二十有六民深く之を憐み遺骸を収めて川の辺に葬り墳墓を築き常に香華を捧げて供養を懈
らず以て現今に至れり田越川を御最期と曰ふは之に原づけり嗚呼六代御前は綾に畏しこき皇胤にして平家の嫡統なるも時
運悲にして一門の凋落に逢ひ一度縲紲斧※を免れて仏法三昧に入りしも復罪なき罪に問はれて田越川辺の露と消えたる誰
か同情の涙を揮はざる星移り物換はりて茲に七百年逗子の浦風今も悲を含み田越川の流猶咽ぶに似たり有志相謀り其の墳
墓を修理し其の塋域を拡張し其の遺跡を明にし其の冤魂を慰め併せて地方に厚の美風を永久に伝へんとす冀くは江湖諸彦
幸に賛助せられんことを。

















 
 悠然遠山暮
獨向白雲歸

平成二十四年 旅 

平成二十四年一月一日  稲子麿草庵
 あかあかと障子くまなき初明り




 過ぐる聖夜より体調を崩し、不覚にも絶食に近き有様
 にて平成壬辰の新春を迎へけり。初詣もかなはず、障
 子越に初日を拝して、辛うじて年頭の一句とするのみ。



平成二十四年一月三日  新年会

   
  おのが名の地酒持ち込む年賀かな
小分けせし雲丹の経巡る新年会

 年始客ありて寝正月に訣別。酒を百薬の長とはよくぞ
 云ひける。大峯山陀羅尼助丸に勝る薬効にしばし陶然。



平成二十四年一月七日 椿山荘

いろ   はに
 山茶花や初折六句にとばしりて  寒林に何打つ音の木霊かな


椿山荘七福神

にほ ほへ
 




恵比寿  大黒天  毘沙門天 弁財天  布袋  福禄寿    寿老人

 杖引いて庭福神を巡りけり


平成二十四年一月九日 新江戸川公園

   
香は凝りて花未だなり梅探る  寒梅や一輪紅きをさきがけに



平成二十四年二月二十九日 新江戸川公園 
閏月晦日の未明より降りつづきし雪 都内積雪一糎の報あり
寒気厳し 漸く満開を迎へし梅林 紅白共によそほひにけり

 
 
紅梅白梅に雪  
 
 大滝橋


平成二十四年三月一日 関口芭蕉庵  
昨春三月倒れたる石燈籠、旧に復したり。
古池の句碑のほとり、今日ひと日雪景色。

   
燈籠のたふれぬほどの春の雪
   
古池や句碑にふうわり牡丹雪 



平成二十四年三月九日付「朝日新聞」朝刊と英訳「おくのほそ道」

  鬼怒鳴門                   Donald Keene
 君来ぬとおくのほそ道春来ぬと   Kimi ki nu to Oku No Hosomichi haru ki nu to

   


平成二十四年三月十一日付「朝日新聞」朝刊 
         追悼式
  
 



平成二十四年三月二十五日 亀戸 ふぐ料理 
       



 平成二十四年 自三月三十日至四月七日 国立国際医療研究センター病院  入院
病得て仁に近しや蝶生る 
     
     
東京スカイツリー    新宿高層ビル群


   
 病室からの眺望 学習院戸山キャンパス  早稲田大学大隈講堂時計台 

   
NTTビル    陸軍軍医学校長森鴎外愛用の机 



平成二十四年四月八日 神田川花見舞
   
 声もなく花の津波にさらはれて


 





 


 椿山荘大椿間
 清談や春高楼の白き壁
将棋名人戦第一戦  於椿山荘 椿山荘冠木門 
    



 豊橋 大滝橋  花筏の彼方に関口芭蕉庵を望む
 花の雲花の筏の神田川

平成二十四年四月九日 神田川小景 

     
 冬眠からさめたルリタテハ  シロバナタンポポ  甘酒あります



平成二十四年四月十二日 武州小川 

武州小川は山紫水明風光明媚をもつて小京都と称せらる。
比企丘陵の一隅、外秩父に位置する盆地なり。南に仙元
山、西に笠山・堂平山の秀麗な山容を望み、槻川・兜川
の清流に魚影濃し。古くより和紙・酒・絹・木材を産す。

文人墨客好んで逍遥したる桃源郷、鰻の老舗に銘酒あり。

 

仙元山


笠山(右)堂平山(左)
山容にて知るべし
春耕の土やはらかき折目かな 
ふるさとは紙漉のさと小京都 
秩父路や峠々の春の雲 
 
 
安政の女郎うなぎを喰ひにけり 
 
 渓流槻川 釣道具
 鮎釣や檜笠忘るな太公望
水雷艦長遊びの聖地
遠き日や英霊塔の花ざかり
 JR八高線・東武東上線 小川町駅
 春の駅まぼろしばかり降り立ちて




平成二十四年五月二日~六日 新潟・長野遠征 
万緑や思ふどち旅支度せよ 
   
心耳にて聞くべし越の田植うた 
弥彦神社 雨の大鳥居
     
 弥彦神社本宮  雨やまず 神域の空  薄日さす  弥彦神社本宮  雨あがる

一刷毛に緑雨過ぐらん佐渡近し 
吹き上げて弥彦越えけり青嵐 
清流に進士を目指せ鯉幟 
     
雪折桜あはれ
思ふどち-1
上杉謙信公支配城址 


  ひとゆかぬみちのかなたのたにふかく
     ゆきどけまちてくらすさとあり 
    photo by Maeda Kousukeomofudochi-2



 平成二十四年五月十二日(土) 深川界隈文学散歩( 一) 

徳川家康江戸入府直後より企画されし神田上水、目白台下大滝橋を堰口(関口)とし
市民の飲料水供給の利便となせり。潮汐の干満の水位は現在の江戸川橋附近を境とす
(平成二十三年(2011)三月十一日東北関東大震災の際、東京湾の津波椿山荘下神田
川まで遡行せしを目撃したり)。延宝年間、松尾芭蕉神田上水の工事に関はれり。俳
号桃青、いまだ世に知られざりける頃のことなり(後人堰口に近く水神社あるに因み
関口芭蕉庵の遺跡とす)。家康水道工事に加へ、製塩地行徳に水運を開くべく小名木
川の開鑿事業を興せり。延宝八年(1680)桃青居を深川に移す。新開地なり。幕府御
用魚問屋杉山杉風の尽力にて草庵を結ぶ。李下より芭蕉の株を贈られ世にいふ深川芭
蕉庵こゝになる。文学散歩まづ深川不動を参拝、順次芭蕉の旧跡を訪ね往時を偲ぶ。
     
深川不動 参道
参道に半袖めだつ薄暑かな
深川不動本堂  蓮華を捧げる矜鞨羅童子 
     
願掛け草鞋  採荼庵跡の芭蕉像  
春霞まぼろしの世に穿く草鞋 
 杖と草鞋(素足)
     
 滝沢馬琴誕生の地  「南総里見八犬伝
緑蔭に栞して読む八犬伝 

 臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺(仏頂禅師創建)
   
 仏頂禅師と親交のあった芭蕉参禅の寺  萬年橋 (小名木川第一橋梁) 葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」
     
大川(隅田川)をゆく最新鋭型水上船 
遊船に棹うた絶えて波白き 
大川端に臨む深川芭蕉庵跡付近  芭蕉記念館

『幻住庵記』 にいはく「終に無能無才にして此一筋につながる」。
折しも訪ねあてし芭蕉庵旧跡に雪の下の咲けるを見、一句得たり。
     
 大川をみつめる芭蕉像後ろ姿  史跡 芭蕉庵跡
 清々し無能無才を雪の下
 芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社
平成二十四年五月十三日(日) 深川界隈文学散歩 (二) 
     
 北千住駅前 モニュメント 日光街道千住 宿場町通り
  鮎の子のしら魚送る別哉 芭蕉
     
 ホトトギス句会 千住
子規虚子を千住にまねく風青し 
 奥の細道 矢立初の地(足立区) 奥の細道 矢立初の地(荒川区) 
     
 千住大橋 (「千住といふ所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ
           胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝ
く」)
 都電荒川線 三ノ輪駅

平成二十四年五月二十一日(月)  金環日蝕

     
 白壁の日蝕
   木漏れ日の日蝕
     
 大滝橋 観察陣  午前7時34分 金環日蝕  見る人 行く人
     
   金環王子  



平成二十四年六月七日(木)  府中 鳩林荘 


鳩林荘は岡部子爵の時代、文人墨客にも広く知れわたり、ここに杖を曳く内外の
貴顕も数多くありましたが、私の時代に入ってからは、政・財界人、文化人のほ
か海外からもロックフェラー三世夫妻をはじめとする多数の賓客を迎えました。

                       1970年12月6日 石橋正二郎



     
   籠に入れて帰りしあとや竹落葉  武蔵野に下闇深き欅かな  涼しさや防空壕のありどころ
 
  縁台に翅を休めよ夏の蝶  彩りやスケツチ会の樟若葉  梅雨入をはゞむ亭主の心ばえ



平成二十四年九月十四日(金) 北区赤羽台 

 平成二十二年十月二日逗子市佐島にて我が研究員が採集したアカボシゴマダラ。
その後二十三年五月埼玉越生町での春型採集、さらにさいたま市見沼、文京区
関口での採集、新宿区早稲田での目撃とつづく。 二十四年に入って五月足立区
七月北区赤羽台の目撃情報をへて、九月十四日午後、北区桐ヶ丘にて一頭採集。

   

   
 赤羽八幡神社鳥居  赤羽八幡神社本殿
   
  
赤羽台公園附近緑道  七月十五日 アカボシゴマダラ目撃現場附近 
   
北区桐ヶ丘採集場所附近 アカボシゴマダラ採集ポイント 



平成二十四年九月十六日(日) 上野恩賜公園 


  南州の眉や上野の天高し  稲子麿
天高し西郷にツン並び立つ  羽化


   
 上野恩賜公園 ツタンカーメン展会場最後尾 
   
 フェルメール展


 平成二十四年九月十六日(日) 根津神社

   
根津神社鳥居 
   
 代々の顔役ありて秋祭


平成二十四年九月二十四日(月) 八柱霊園 


                 かめまろ日記
 
 秋の彼岸なり。手提げ水槽にて移動、八柱霊園に墓参す。仏説に盲亀浮木の喩へあり。
 大海を経巡る盲亀の浮木に会ひ難きことより、人に生まるゝこと難く、さらには人と
 生まるゝも仏法に会ふことなほ難きをいふとなり。亀に二類、水亀と陸亀あり。前者
 淡水と海水とに棲み分く。まろの系統は日本各地の河川湖沼に棲む一種にて沼亀なり。
 仏説の亀は海亀なり。墓地にてまろを見かけし伊予の人、こはどんがめなりといひて、
 育てしのちはと言葉を濁したり。どんがめとはスツポンのことならずや。或はどんは
 鈍に通ずるをもつて当座の挨拶となしたるか。今以て解せず。げに恐ろしきは人間界。


かめまろ墓参

     
墓洗ふ傍らに亀一つをり  
欠伸して亀あゆみゆく墓前かな
 
     
墓拝む亀もありけり縁ありて   
   


平成二十四年九月二十八日(金) 四谷 萬亀山東長寺  

 かめまろの型の供物や秋入日


 平成二十四年九月二十九日(土) 運動会

晴天下、戸山が原の運動会。木立後方に見えるのは四月
に入院していた国立国際医療研究センター病院。運動会
は心身の健康度をはかる行事。出場者と応援隊は一体



平成二十四年十月一日(月) 東京駅 丸ノ内駅舎

東京駅は大正三年(1914)帝都の表玄関として皇居に面した行幸通りに開業。
設計者は日本近代建築の父辰野金吾。昭和二十年(1945)五月、アメリカ軍の
空襲により三階部分焼失。戦後一部修復して営業再開。国の重要文化財指定を
受け、五年の歳月をかけて三階部分の復現作業を完了。往時の威容よみがえり
十月一日、東京ステーションホテルを併設し再開。駅周辺の美観も順次整う。

     
     


平成二十四年十月六日(土) 本所吾妻橋牛島神社 

     
 
神楽殿の奉納公演 
 
     
新名所東京スカイツリーに最も近い本所吾妻橋畔公園で見かけた光景。撮影は順番待ち。 天に聳え立つ東京スカイツリー。
白雲には人工と調和した美しさ。
 下町の空は広く、全景が望見できる。


平成二十四年十月七日(日) 関口芭蕉庵  

   
 爪立てて亀は高きに登りけり
 








 

平成二十三年 旅

平成二十三年一月一日 湯島天神

 湯島天神初詣之記

道真、死して天満大自在天と祀らる
京都北野天満宮・福岡太宰府天満宮
・鎌倉荏柄天神社いづれも参拝せり
東京湯島天神、地元なれば、しばし
ば参拝せしも初詣ははじめてなりき
湯島の白梅口ずさむ影法師のありや
なしや…香は残りて 玉垣は語らず
   
行く年来る年…。大晦日の夜、前倒しで初詣する人の姿。
本郷三丁目で見つけたさくら咲く櫻木天神という天神様。
年が明け、湯島天神への参詣路は若い受験生で溢
れる。腹ごしらえが先、とばかり夜店もひしめく。
   
 本殿の飛梅は夜陰に燦然たる銀光を発している。 境内の一隅にすでに馥郁と香を放つ白梅。
白梅のゆかりうれしき初詣


平成二十三年一月三日 横浜みなとみらいホール


横浜みなとみらいホール 新春OPEN DAY 2011

日本海側の大雪が報じられるなか、太平洋側の東京・横浜は
温暖な天候に恵まれた。渋谷で東急東横線・元町中華街行の
発車間近の特急に乗り換えようとして走った。ホームに金属
の撥ねるような音がしたがそのまま最後尾の車輌に飛び乗っ
た。扉が閉まる直前、追いかけてきた若い女性が五百円硬貨
を差しだしてきた。会釈して受け取った瞬間、扉が閉まる…
献身的な行動と健やかな笑顔がいまなお印象深い。有難う。
観音は脱兎のごとし年新た





 


 ホール5階ロビーからの眺望  未来エネルギーの風力発電  横浜からもスカイツリーが見えた
 


 





 中国獅子舞みなとら君 元気に登場  ごあいさつ よい年でありますように  はい ごほうび! 手をかまないで






 エントランスのフレスコ画・ 開演を待つ 小ホール  エントランスのフレスコ画・Ⅱ

 
 
 小ホール入口  演奏家なりきりタイム  スタインウェイ


平成二十三年一月九日 江戸川公園 其一

偶成梅三句

むかし幕府の水利事業たる神田上水、大洗堰に源を発す
いま一帯は旧称を公園の名に留置、その長堤に桜を誇る
堰近き陽光溢るゝ小天地、梅林ありて桜花なき春を嘯く



     
紅白のいづれまさるや梅合戦 
北国はいま雪のなか梅ひらく 
先師を偲びて
雪白の梅たふとしあふぎみる 

 山寺や雪の底なる鐘の声    小林一茶  


                鈴木牧之著『北越雪譜』

 掘りたる雪は空地の、人の妨げなき処へ山のごとく積み上げる、これを里言に掘り上げといふ。
 大家は家夫を尽くして力足らざれば掘夫を傭ひ、幾十人の力を併せて一時に掘り尽くす。事を
 急に為すは掘る内にも大雪下れば立ち所に堆く人力におよばざるゆゑ也。右は大家の事をいふ、
 小家の貧しきは掘夫をやとふべきも費えあれば男女をいはず一家雪を掘る。吾里にかぎらず雪
 ふかき処は皆然なり。此雪いくばくの力をつひやし、いくばくの銭を費やし、終日ほりたる跡
 へその夜大雪降り夜明けて見れば元のごとし。かゝる時は主人はさら也。下人は頭を低れて嘆
 息をつくのみ也。大抵雪降るごとに掘るゆゑに、里言に一番掘り二番掘りといふ。

 




平成二十三年一月十二日  関口芭蕉庵


 関口芭蕉庵 

以下、
史蹟関口芭蕉庵案内記による

 俳聖松尾芭蕉が郷里伊賀から二度めに江戸に出て、
深川六間堀近くの、所謂今日の深川芭蕉庵に住み
つくまでの四年間、即ち延宝五年(一六七七年)
当時三十四歳で神田上水(江戸川)の改修工事を
 監督して、延宝八年(一六八〇年)三十七歳まで、
この地竜隠庵に居住したので、関口芭蕉庵と呼ん
で大正十五年、東京府の指定史蹟に編入されたの
 である。                   

延宝の芭蕉したしき庵の春
床の間に吉祥草あり芭蕉像

 


          承前

 そして大正十五年以来、俳壇の長老
松宇伊藤半
 次郎
氏が管理人として、昭和十八年八十五歳で
 病歿するまで、此処に住んでいた。   
 

その時突然机上に落ちた一個の郵便は暫く静まっていた余の心をまたさわ立たしめずには
おかなかった。それは『俳諧』と題する雑誌であって、居士が
伊藤松宇、片山桃雨諸氏と
共に刊行したものであって、その中には余が居士に送った手紙の端に認めておいた句が一、
二句載っていた。碧梧桐君の句も載っていた。

                                    高浜虚子著『回想 子規・漱石』

 左は上記案内記(昭和四十三年刊)所載写真
平成二十三年現在よくその景観を保っている
庵の背後に聳えるのは隣接の水神社大公孫樹

昭和七年、伊藤松宇の関口芭蕉庵を頼り、三千余を
蔵する松宇文庫の閲覧に明け暮れしつつ、翁の「俳書
解題」の業を助けし中村俊定は芭蕉連句研究の泰斗。

愛知の人。十二歳で剃髪、僧名俊定。京都で修行の後
早稲田大学入学、ロシア文学より国文学に転じけり。

頃日たまさか臘梅を見て故人の京都寺僧時代を思ふ。

    観想 臘梅三句        

臘梅や脚下照覧合掌す     
 作務読経たえず臘梅にほひけり
   
臘梅を法燈にして夜の塔    





平成二十三年一月十八日  江戸川公園 其二


    神田上水舊蹟碑記

 徳川氏府ヲ江戸ニ開クノ初

  大久保主水忠行命ヲ受ケテ
 上水道開設ノ工ヲ起シ多摩郡
 井之頭池ノ水ヲ用ヒ此地ニ
 堰ヲ設ケテ神田市中ヨリ
 給水ス神田上水即チ是ナリ
 此地ハ地勢髙峻老樹蓊蔚タ
 ル目白臺下ノ景勝ニ位シ亦
 四季ノ景物ニ富メルヲ以テ
 古来江戸名所トシテ聞ユル
 事久シ俳聖芭蕉嘗テ上水道
 修築ニ從ヒテ此處ニ寓シ遺
 阯今ニ傳ヘテ風流ノ餘韻ヲ
 慕フモノ尠カラズ
 大正八年附近水道附属地ヲ
 江戸川公園ト為シ上水道史蹟
 ノ保存ニ務メシガ昭和十二
 年三月江戸川改修ノ工成ル
 ニ至ツテ遂ニ舊觀ヲ失ヘリ
 仍テ茲ニ舊洗堰遺材ノ一部
 ヲ用ヒ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ
 以テ追憶ノ資トナス

  昭和十三年三月 
          東京市
 

伊賀の上野は赤坂に幼少時を過ごした松尾宗房は
江戸に出て苦節幾星霜、念願の宗匠となって松尾
桃青を名乗るが、家庭の事情もあって経済的には
不如意であった。延宝年間ここ神田上水道改修工
事に従ったのは副収入が欠かせなかったからであ
ろう。江戸川の南には広々とした早稲田の田圃、
その向こうに秀麗な富士山が遙か遠く望まれた。

踏青や伊賀の赤坂なつかしき




 
 神田上水舊蹟碑 全景  神田上水舊蹟碑記 碑文(釈文は上掲)   神田上水 縮小模型庭園



平成二十三年二月二日  講談社野間記念館 
 
 講談社野間記念館入口  記念館玄関
   
庭園より見る東京カテドラル聖大教会の鐘楼
 記念館休憩室より見る庭園


2011年・新春展

                   
                     ■展示解説

 《四季の彩りと十二ケ月図》

 日本では、平安時代以来、四季の景物や花鳥などを画面に配する四季絵や、各月の風俗や年中行事な
 どの様子をとらえた月次絵などが、描かれてきました。日本は、世界でもまれな四季の彩りに恵まれ
 た国であり、私たちの祖先は、豊かな自然に親しみながら、季節に応じて移ろう花々や鳥、虫などの
 様子に目を凝らし、やがて多様な季節感を日本の文化のうちに強く根づかせてきたのです。四季の華
 麗な移ろいは、文学作品などに取り上げられると同時に、画家たちの強い興味の対象ともなりました。
 花鳥や年中行事を対象とする月次絵は、主として大和絵の画題でしたが、江戸時代までに各流派が手
 がけていくようになり、これらのいくつかは、掛軸や屏風の形式で、現在まで残されています。近代
 においても、こうした四季絵、月次絵が、さかんに描かれていきました

                                                      講談社野間記念館


十二ヶ月図で二月に観梅(見返りの梅)を配するをみて友を偲ぶ

追善梅三句 
 莞爾として生死をわらふ梅一輪
 梅とのみ彫らせし箸を形見にて
 梅の名をとゞめし酒のしたはしき




平成二十三年二月三日 護國寺節分会追儺式


  運慶が
護國寺の山門で仁王を刻んでゐると云ふ評判だから、散歩ながら行つて見ると、
 自分より先にもう大勢集まつて、しきりに下馬評をやつてゐた。
  山門の前五六間の所には、大きな赤松があつて、其幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い
 青空迄伸びて居る。松の緑と朱塗の門が互ひに照りあつて美事に見える。其の上松の位置
 が好い。門の左の端を眼障にならない様に、斜に切つて行つて、上になる程幅を廣く屋根
 迄突出してゐるのが何となく古風である。鎌倉時代とも思はれる。 

   所が見て居るものは、みんな自分と同じく、明治の人間である。…
                                          夏目漱石「夢十夜」第六夜

神齢山護國寺は天和元年(一六八一)五代将軍徳川綱吉、生母桂昌院の願を
受け、創建す。開基は僧亮賢。江戸幕府の大塚薬園(目白薬園とも)の地を
拝領し伽藍を建立。本尊如意輪観世音菩薩、観音堂に安置す。現本堂是也。


     
 護国寺仁王門
鬼ひしぐ仁王たのもし節分会
護國寺不老門
護國寺や老いも若きも年の豆 

神齢山護國寺本堂(国指定重要文化財)
元禄十年(一六九七)建立 本尊如意輪観世音菩薩 
     

 年男年女の関取や歌手が登場
 本堂前で春を待つ華道活花 おごそかな大導師一行のお練り

     

 なぜか鴉の群も集合中
 多宝塔を背に豆撒きの始まり
心にも鬼は棲むなり鬼は外
 幸運にも拾い得た福豆
     
「おなかこわすからダメ!」「オッニー!」
親ごゝろ子は知らぬもの鬼やらひ 
「ここなら安全だね。」「ホントだ。」 
豆打や小さき鬼もゐるぞかし
大阪にはないという大阪焼
東京の縁日では人気の屋台



平成二十三年二月五日 漱石公園(早稲田南町)猫塚
漱石終焉の地

 
  ある人が私の家の猫を見て、「是は何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何氣なく「二代目です」と
 答へたが、あとで考へると、二代目はもう通り越して、その實三代目になつてゐた。

   初代は宿なしであつたにも拘らず、ある意味からして、大分有名になつたが、それに引きかへて、二
 代目の生涯は、主人にさへ忘れられる位、短命だつた。私は誰がそれを何處から貰つて來たか能く知ら
 ない。然し手の掌に載せれば載せられるやうな小さい恰好をして、彼が其所いら中這ひ廻つてゐた當時
 を、私はまだ記憶してゐる。此可憐な動物は、ある朝家のものが床を揚げる時、誤つて上から踏み殺し
 てしまつた。ぐうといふ聲がしたので、蒲團下に潜り込んでゐる彼をすぐ引き出して、相當の手當をし
 たが、もう間に合はなかつた。彼はそれから一日二日して遂に死んでしまつた。其後へ來たのが即ち眞
 黑な今の猫である。
  私は此黑猫を可愛がつても憎がつてもゐない。猫の方でも宅中のそのそ歩き廻るだけで、別に私の傍
 へ寄り付かうといふ好意を現はした事がない。
  或時彼は台所の戸棚へ這入つて、鍋の中へ落ちた。其鍋には胡麻の油が一杯あつたので、彼の身體は
 コスメチツクでも塗り付けたやうに光り始めた。彼はその光る身體で私の原稿紙の上に寐たものだから、
 油がずつと下迄滲み通つて、私を隨分な目に逢はせた。

                                                    夏目漱石『硝子戸の中』
  『硝子戸の中』は、言ふまでもなく、漱石最後の「小品」である。漱石は是を、大正四年一月十三日
 から同じ二月二十三日まで、即ち『道草』を書く、四五ケ月以前に書いた。さうして漱石は、是を書い
 た翌年の、十二月九日に死んだ。        小宮豊隆(岩波書店刊「漱石全集」第八巻 解説)
恋猫や主人は心地例ならず   夏目漱石

猫塚三句

 宿なしも恋はするなり猫なれば

猫塚や二代目は恋も知らずに

 漱石を好くものもなし猫の恋

     
 漱石公園案内板 猫塚  夏目漱石像 

   ひとよりも空 語よりも黙  漱石
肩に来て人なつかしや赤蜻蛉           漱石
則 天 去 私
 夏目漱石像台座銘(左)    夏目漱石像台座銘(右)  


平成二十三年二月七日 誓閑寺

 
  どんな田舎へ行つてもありがちな豆腐屋は無論あつた。其豆腐屋には油の臭の染み込んだ縄暖簾が
 かゝつてゐて門口を流れる下水の水が京都へでも行つたやうに綺麗だつた。其豆腐屋について曲ると
 半町程先に西閑寺といふ寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩はれて
 ゐるので、中に何んなものがあるか通りからは全く見えなかつたが、其奥でする朝晩の御勤の鉦の音
 は、今でも私の耳に残つてゐる。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る
西閑
 
の鉦の音は、何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むやうに小さい私の気分を寒くした。

                                                   夏目漱石『硝子戸の中』
                                      ※西閑寺=誓閑寺

   
  誓閑寺
鉦の音に春やはらぎぬ誓閑寺
 延命地蔵菩薩
光背の欠けし地蔵や春浅き
 境内裏の籔
うぐひすの声のむかふの読経かな


宗参寺 
  私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅が何處にあるか知らなかつた。たゞ私の子供の時分から
 覺えてゐる古い寺の傍だらうと計考へてゐた。それは
山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、
 舊幕時代の記念のやうに、古い榎が一本立つてゐるのが、私の書齋の北の縁から數多の屋根を越
 して能く見えた。

                                 夏目漱石『硝子戸の中』
  世間には拙を守ると云ふ人がある。此人が来世に生れ変ると
 屹度木瓜になる。余も木瓜になりたい。
       『草枕』
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく  漱石 


就中漱石愛でし
木瓜の花 

稲子麿









無縁仏 
梅咲きぬ無縁仏のかたはらに 
 山鹿素行墓碑
冴えかへる軍師の墓のありどころ
宗参寺 
 ふりむけば門閉ぢにけり寺の春




平成二十三年二月十五日 新江戸川公園 其一

今冬はじめて都心に雪降る。雪積は三年ぶり、二糎積れりといふ。
雪中の梅、古来日本の風景美を代表せる景物なること言を俟たず。
夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり 
梅の花降りおほふ雪をつゝみ持ち君に見せむと見れば消(け)につゝ
残りたる雪にまじれる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも
                                      『万葉集』

みゆきと呼ぶ、ゆきの美称なり。天よりよきこともたらすしるし。
万葉びとのこよなくめでし梅の花、雪につゝまれなほ香りたちぬ。 
 
 

  新江戸川公園(旧細川家学問所・松聲閣)
雪中の梅

 咲き老いて今年さらなり梅の影


 夜の神田川/雪景  朝の椿山荘/雪晴
むばたまの春の夜の雪霏々として 
遠き灯や春の夜の雪ふりつもる
影絶えて春の夜の橋雪もよひ 
     
椿山荘 雪吊三景
雪晴や雪吊の影こゝかしこ


 雪の関口芭蕉庵
     

 関口芭蕉庵 枯芭蕉
 関口芭蕉庵 玄関
雪の戸を叩く声あり梅かをる
 関口芭蕉庵 胸突坂



平成二十三年二月二十五日  関口芭蕉庵

 春一番
春一番、春最初に吹く南風。漁師の言葉といふ。
この日気温二十度、汗ばむ陽気となれり。庵中
高所に竹藪あり。風強ければ稈撓ひ風弱ければ
稈戻る。見えざる渚に見えざる波の寄せては引
くがごとし。俗耳一洗、林中琴を弾じて已まず。
 
 
  七賢の琴不断なり春一番    


 蒲公英之辞

庵中一株の白花蒲公英あり。多年草なれば毎春燈籠の下に
 開花す。シロバナタンポポは西日本に分布、関東に稀なり。
別名鼓草。鼓に似る。タンポポは鼓の音に擬す。俗説に村
童の発明になるといふ。敢て信を置くべきか。上句「ほが
 らほがら」夜の明けゆくさまにて、黄花似つかはしからず。



 

 

 
ほがらほがら蒲公英の花咲きにけり 
かたばみの花一輪の一会かな 
日溜りや申し合はせて蕗の薹 

                   
                           越年蝶越年の蝶

◎横山光夫著『原色日本蝶類図鑑』/【もんきちょう】
春から秋にかけて「もんしろちょう」と共に日本全土に最も普通な蝶で、「おつねんちょう」
の別名もあるが成虫越冬は誤りで、この名は抹殺されるべきである。

◎『精選版日本国語大辞典』/【おつねんちょう】
紋黄蝶のこと。ふつう幼虫で越年するが、成虫で越冬するものと信じられていたことからいう。


◎根岸稲子麿/【越年の蝶】
「もんきちょう」の生態を見誤ったことから「おつねんちょう」の名は宙に浮いた状況にある。
実際には「きちょう」「つまぐろきちょう」「すじぼそやまきちょう」「やまきちょう」とい
ったきちょうの名を有する種は成虫越冬する。その他にも成虫越冬する蝶は少なくない。南風
にともなう気温の上昇で飛び出したルリタテハ(写真)も越年した蝶である。これらを「越年の
蝶」として一括、春の新季題としたい。むろん以下に示す「初蝶」とは明らかに異なる。

 初蝶やわが三十の袖袂 石田波郷 

春になって羽化したもので最初に目にする蝶を、初蝶という。もんしろちょう・もんきちょう
などを指す。春の花を求めて舞うさまは絵になるが、成虫越冬した蝶の姿は厳しくも痛々しい。
「越年の蝶」は実態に即して詠むこと肝要。作句、石の上に安心端坐する禅僧の境地を重ねた。


 
   
草ぐさに燈籠の下萌えわたる 
 越年の蝶みんなみに居ずまひす
懐石に越年の蝶の習ひあり



平成二十三年三月二日 新江戸川公園 其二


               きさらぎやよひ 花鳥

きさらぎやよひ、ともに旧暦の呼び名なり。俳諧の季題は江戸時代に淵源するところな
れば新暦との齟齬いたるところにあり。初心の者おほくこゝにまよふ。明日は三月三日、
桃の節句とは名ばかりにて旧暦一月二十九日にあたれり。旧暦二月のきさらぎ、明後日
が朔。ちなみに雛まつり、旧暦三月三日は新暦四月五日なり。清少納言『枕草子』に

   三月三日は、うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。
また、
  おもしろく咲きたる櫻をながく折りて、おほきなる瓶にさしたるこそをかしけれ。

とあり。蓋し暖春のひと日と知るべし。明日、雛祭り寒波との気象予報あり。嗚呼。
    うつくしきもの 瓜にかきたるちごの顔。雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。


 
雀の子たが声きゝてをどり来る

     
タンポポと地を打つ音の形して 
 低き門ありし思ひに馬酔木さく
しめやかに沈丁の香のうごく朝 



平成二十三年三月十一日
  

 鴨長明『方丈記』

  また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震(おほなゐ)ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。
 山はくづれて河を埋(うづ)み、海は傾(かたぶ)きて陸路(ろくじ)をひたせり。土裂けて水涌き出で
  巌(いはほ)割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。
 都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟(だうしゃたふめう)、一つとして全(また)からず。或はくづれ、
 或はたふれぬ。塵灰(ちりはひ)たちのぼりて、盛りなる煙の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷(い
 かづち)にことならず。家の内にをれば、忽(たちまち)にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。
 羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震
 (なゐ)なりけりとこそ覚え侍りしか。                             
 かく、おびたゝしくふる事は、しばしにて止みにしかども、その余波(なごり)、しばしは絶えず。よの
 つね、驚くほどの地震(なゐ)、二三十度ふらぬ日はなし。十日・廿日過ぎにしかば、やうやう間遠にな
 りて、或は四五度、二三度、若(もし)は一日(ひとひ)まぜ、二三日に一度など、おほかたその余波、
 三月ばかりや侍りけむ。                                    

  四大種(しだいしゅ)のなかに、水(すい)・火(くわ)・風(ふう)はつねに害をなせど、大地にいた
 りては異なる変をなさず。昔、斉衡のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みぐし)落ちなど、
 いみじき事どもはべりけれど、なほこの度には如(し)かずとぞ。すなはちは、人みなあぢきなき事をの
 べて、いさゝかの心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言
 ひ出づる人だになし。                                      
                                

平成二十三年(2011)三月十一日(金) 14:46、東北関東大震災発生。マグニチュード9.0。同じころ=元暦二年(1185)七月九日、大地震発生。同年三月平家滅亡。鴨長明三十三歳。
斉衡のころ=斉衡二年(855)五月、大地震発生。東大寺大仏(752開眼)の首が落下した。
 

万本の蓮糸たらせ春の空 


      
平成二十三年三月十六日 関口芭蕉庵 

三月句会休会 

 芭蕉庵休庵
燈籠のたふるゝ音や春の池

 


 

写真は,隣接の椿山荘庭園で平成の大修理中
の三重塔の築山にある燈籠(伝鎌倉時代作)
芭蕉庵の東屋の傍にある燈籠も倒れたという
(三月十九日、水仙・清香同行撮影



 



平成二十三年四月一日  靖国神社・神田川の桜

靖国の桜開花す年並に 

 
花筏乗るも乗らぬも夢の夢
 

目に見えぬ童子棹さす花筏 
 

かつ流れかつ留まりぬ花筏 



平成二十三年四月二十八日

 菜の花や墓処は東と定めけり

(平成23年4月28日付『朝日新聞』朝刊)



平成二十三年四月二十八日  深川不動

   
成田山新勝寺橋本照稔貫首 東京別院深川不動堂巡錫


この日、かねて祈願することありて深川不動に参詣す。午後三時より
開創三一〇年記念事業「新本堂竣工特別大護摩供」を執行すといふ。
写真正面は旧本堂。その左、建屋のごときは新本堂の鞘堂となる外壁
にて凡そ二万の真言を示す梵字からなる。本尊不動明王は昭和二十年
の東京大空襲の際避難せしもの。爾来六十余年、貫首を迎へて遷座。


 深川に大護摩燻ゆる緑の週





平成二十三年五月二日/三日/四日/五日/六日 

 越後遠征

越後国一宮の弥彦神社、祭神は天香語山命(あめのかごやまのみこと)
神社の背後に聳ゆる弥彦山の頂より佐渡島を望見せり。にはかに実景
とは信じ難し。さながら蜃気楼のごとし。土地の人いふ、常はさらに
輪郭明瞭にして島の港々までも見ゆと。信ずべし。畏き神の山なり。

   
 弥彦山頂からの遠望(左/眼下に広がる越後平野・右/日本海に浮かぶ佐渡島)
行く春や佐渡の島かげ海越しに


平成十六年十月、新潟県中越地震により旧山古志村は甚大なる被害を蒙り
て隣接の長岡市に全村避難。日本の原風景と称せられし美しき棚田も寸断
せられ錦鯉と闘牛の村は存亡の危機に直面せり。爾来七年を閲し、今なほ
復興途上にあり。棚田やうやく整ひ水引けば田毎に蛙声しきりなり。

   
  旧山古志村虫亀の棚田 
応分に棚田の蛙鳴きわけり


雪深き越後に春を告ぐる山野草絵巻。草の名はさまざまなれど
ひとつ名に呼べばいづれも雪割草。弥彦山の北に連なる角田山
は正真正銘の雪割草の名産地。清楚可憐、春の妖精、揺籃の地

   
 越後の山野草(左/イワウチワ・右/ユキワリソウ
雪割りて名乗り出でたる越の花 


五月大型連休の最後に立夏。この時期ことに雪国の歳時記遺憾やるかたなし。
残雪の山の斜面に赫奕として山桜咲き、薫風光りて早みどりの林を吹き過ぐ。

越後では雪に桜に立夏かな 
JR磐越西線三川駅に近い新潟県東蒲原郡阿賀町
中ノ沢渓谷森林公園キャンプ場
水芭蕉近くに羽化直後のギフチョウ♂一頭出現
地元長岡市のベテラン採集家のネットに
 顔出して久闊を叙す水芭蕉


 十薬三句        
十薬や白き十字の花たふと   
林床に十薬散華ぬかづきぬ   
ドクダミや画仙の筆に陸離たる 

 
 熊谷守一 どくだみ草 1972年 
板 油彩 33.5x24.2cm

現代日本美術全集』(集英社)
                 ※熊谷守一〈1880-1977〉


平成二十三年六月六日

貞享五とせ如月の末、伊勢に詣づ。この御前につちを踏む事、今五たびに及び侍りぬ。
更にとしのひとつも老い行くまゝにかしこきおほんひかりもたふとさも、猶思ひまさ
れる心地して、かの西行のかたじけなさにとよみけん、涙の跡もなつかしければ、扇
うちしき砂(いさご)にかしらかたぶけながら、
 何の木の花とは知らず匂ひ哉   武陵 芭蕉桃青拝

※何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるゝ  西行
※貞享五年(1688)/同年九月元禄と改元
 
             
 この日、五月中つ頃伊勢参宮せし人の端書落掌。写真に心寄せありて
 神域の一景を一葉に仕立て「神々は深い森の中と五十鈴川の中に居ら
 れました」と書き添へける。西行・芭蕉の昔を偲びて仮に讃をなす。


              白鷺の影もかしこし五十鈴川

 



平成二十三年六月二十二日 夏至

       
         武州越生 大高取山

 夏至、梅雨晴れ。六月に入り大高取山へ二度目の山行。
 都心を遠く望む山腹に世界無名戦士の墓。期せずして
 足下の叢中に三角点を見出したり。東北関東大震災の
 余震いまだ収まらず。日本海溝の地殻変動はなほも列
 島を傾くるかと怪しまるゝ。天を仰げば太陽最も高し。
     一手指天一手指地  
 三角点海溝に斜す夏至の山  


 

   
 ちさき実の赤く熟れたり山桜桃  紫陽花のかなしみは藍さらに青


平成二十三年七月二日  奥多摩
  蛍狩 

     
     
 横沢入 里山環境保全地域    鉄塔の下一帯 蛍の棲息地



 平成二十三年七月三日  鎌倉成就院

友あり仙台より来たる鎌倉にて紫陽花を見たしといふ。
成就院の花いま盛りならんと聞きて訪ふ。宿願成就せり。
長谷のあぢさゐ荘に投宿、万本の蓮糸のことなど物語す。

  
  
あぢさゐの花越しに見る由比ケ浜  


平成二十三年七月四日  鎌倉高徳院


長谷の観音を拝したるのち、高徳院に詣づ。露座の大仏を
晶子の歌に釈迦牟尼とせるは誤りなれど美男におはすこと
いさゝかも変はりなし。大風に仏殿を失ひ、津波の引波に
やゝ前傾すと史書は伝ふ。鳶の声しきりに夏木立に落つ。

大仏は津波にかぶき夏木立 




平成二十三年七月九日  浅草寺鬼灯市 
 


九日、異例に早き梅雨明宣言、猛暑覚悟のうへ金龍山浅草寺に詣づ。

雷門より仲見世通りまで参詣客に埋る。十日は観世音菩薩の結縁日、
功徳は四万六千日分といふ。本堂に進み合掌、雷除御守護を拝受す。
 
金龍山浅草寺本堂の画龍 



鬼灯に雷除と書く御寺 

     

 浅草寺雷門
雷門の大提灯
 けふこゝに雷おこし季語にせん
 仲見世通り東北支援横断幕
   
 
 浅草寺本堂 本尊観世音菩薩 一日四万六千日功徳
境内の鬼灯市(一)
 


 
 
境内の鬼灯市(二)
 金魚釣り
ほゝづきより赤き金魚に釣られけり 
 スカイツリー(634メートル) 駒形橋西詰
夏ツリー武蔵の国に聳えをり 



平成二十三年七月十七日 ブリジストン美術館


「没後100年 青木繁展」は、3月(3/25ー5/15)の九州・石橋美術館に始まり、5月(5/27ー7/10)の京都・国立近代美術館をへて
7月(7/17ー9/4)の東京・ブリジストン美術館と巡回してきた。<よみがえる神話と芸術〉のテーマのもと、青木繁がめざしたロマンの
本質を解明しようとする試みである。日本近代の洋画界に颯爽と登場、またたくまに天空高く駆け去った白馬の騎士の軌跡がここにある。

青木繁展                  Aoki Shigeru ten
  丹青の無明長夜に架かる虹     Tansei no mumyaudyauya ni kakaru niji.
     銛参差太古の夏の海の幸       Mori shinshi taiko no natsu no Umi No Sachi.




 いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つてゐる背の高い女を画いた。
 代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来てゐると思つた。つ
 まり、自分もあゝ云ふ沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである。

                        夏目漱石『それから』

青木君の絵を久し振に見ましたあの人は天才と思ひます。あの室の中に立つて
自から故人を惜いと思ふ気が致しました。

   明治四十五年三月十七日(日) 午後六時ー七時 
         牛込区早稲田南町七番地 夏目金之助(漱石)より
         小石川区高田老松町四十一番地 津田亀次郎(青楓)宛書簡





平成二十三年八月四日  森戸海岸


湘南森戸海岸の海の家にて、泡盛飲み放題といふ催しあり
途次、老舗茶屋の祭に立寄し後、件の海の家を訪ふ。飲む
ほどに湘南の涼気膚に爽たり。台風の余波にて森戸の夕照
には足らざる景なれど、泡盛もてする暑気払ひに滅却せり

泡盛や琉球の空海の色 



     
 京急線新逗子駅南口  三浦半島案内図  新逗子駅(海岸回り)→森戸海岸→葉山

   
 葉山鐙摺・日影茶屋玄関 夏休み恒例・日影祭り(八月四・五日開催)
   
弁天の島より暮るゝ夏の海 
江の島や森戸の浜の夕涼み 
湘南の夕焼やさし小舟がち

     
  提供・掛田商店
 
http://www.kakeda.com/
 
   
  腕に「呑」の極印   異国情緒溢れる店内 



平成二十三年八月十六・十七日  蓼科高原 


中央高速道路諏訪I.Cを出、ビーナスラインを経て、蓼科高原を訪なふ。
数多の湖水の点在せる広大な裾野をへだて、南は八ヶ岳連峰へと続けり。
スケッチブック片手に白樺湖周辺を散策せしこともありしも、往時茫々。
恩師いま新涼の避暑地にあり。久闊を詫びしのち清談の一ときを得たり。

新涼の蓼科に行く命生く 

  
     
山蝉の声しめりけり朝の窓  
 秋澄みて蓼科山の正座かな
蓼科の雲より白し蕎麦の花 

   
 

麦草の峠あらすな草もみぢ  

 
     


平成二十三年八月十七日 松原湖

     
 JR小海線松原湖駅三景 
     
 松原諏方神社  松原諏方神社御柱  松原湖



平成二十三年八月二十四日 

秋めくや奥の細道はてもなし 

そもそもことふりにたれど、松嶋は
扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・
西湖を恥ぢず。東南より海を入れて
江のうち三里、浙江の潮をたゝふ。
嶋々の数を尽くして、そばだつもの
は天をゆびさし、伏すものは波には
らばふ。 
(平成23年8月24日付『朝日新聞』朝刊)



平成二十三年九月二日

国籍を得て住む国の秋九月



(平成23年9月2日付『朝日新聞』夕刊) 



平成二十三年九月十日
早稲田南町 漱石公園


 かつて早稲田南町の高台に漱石山房ありけり。
 いま漱石公園として住宅地の一画に名を残す。
折しも祭あり。神輿渡御なるに残暑厳しく担
ぎ手しばし公園に休憩す。漱石像視線のさき
 に不思議なる形状の積乱雲突出。即席の一句。

 雲の峰則天去私とそびえけり

     

平成二十三年九月十日
豊島区高田 氷川神社 

神田川水辺神社多し。高田氷川神社に神楽殿あり、
里神楽「神田種蒔」奉納せらる。無言劇なれば筋は
見物する側の想像に委ねられたるが如し。都市化に
稲作は昔物語となりしかどかやうの芸能ちひさき社
に残るは有難し。手を引かれ肩車に乗りて聞く笛太
鼓の音、幼き記憶に刻まるゝこと疑ひなかるべし。

どの子にも親がついたる祭かな 

     

平成二十三年九月二十三日
新宿御苑 

秋彼岸の中日、新宿御苑を訪ひ、日本を縦断せし15号台風の被害受けし苑内を散策す。
諸処に倒木、枝折れ、木の葉散乱、園丁その処理に追はれ殺伐の気なきにしもあらず。
中に十月桜、楚々たる花を開けり。幼児の快活なる挙措と対照をなすに一興を催せり。

 
 
 館内にて書幅展、故人の書あり。
形見なる雪月花の書秋彼岸 
新宿御苑 国旗掲揚
あやまたず十月ざくら咲きにけり
 
 
手つなぎの母子慕はし木の実降る 

 


平成二十三年十月一日
都電に花電車運行  

 


東京都内を走る路面電車は現在、荒川区三ノ輪橋と新宿区
早稲田を結ぶ一路線のみ営業されている。都交通局はその
生誕100年を祝い、10月の各日曜に花電車を運行する予定


       
 明治通り×新目白通り
都電沿線を警備する巡査
高戸橋南詰都電カーブ地点 
撮影ポイント附近の人混み
 高戸橋通過中の車両
神田川を越える
 花模様はあれど花電車にあらず
車体はいまや走る広告媒体

       
 通過予定時刻の確認  通常車両  これまた通常車両 待望の花電車?

         
接近する花電車  名誉の運転手 正装の監督者
     
都電100歳を祝うバースディケーキをのせた花電車 
カメラの放列の前を徐行しながら通過 
  



平成23年10月7日付『朝日新聞』朝刊

  スウェーデン・アカデミーは6日、今年のノーベル文学賞
を、スウェーデンの詩人、トーマス・トランストロンメル
さん(80)に授与すると発表した。授賞理由を「凝縮され
た透明感のある描写を通して
現実に対する新たな道程を
示してくれた」と説明した。戦後のスウェーデンを代表す
る詩人の一人として、国際的にも知られる。ストックホル
ム大で文学や心理学などを学び、若者向けの更生施設に心
理学者として一時勤めた。1954年の第1詩集「17編の詩」
で注目を集めた。

短い自由詩のなかに、凝縮された言葉で神秘的な世界をイ
メージ豊かに表現し、「隠喩の巨匠」とも呼ばれる。90年、
脳卒中で倒れたが、96年には病気の詩人の心象風景を描い
た詩集「悲しみのゴンドラ」を刊行し、日本でも99年に邦
訳が出た。

「悲しみのゴンドラ」の翻訳者でスウェーデン在住のエイ
コ・デュークさんは「日常的な言葉を使いながら比喩的表
現が豊かで、作風は俳句に似ている。本人も俳句のファン。
右半身の不随と闘いながら、今も少しずつ詩作は続けてい
る。明るくゆったり人柄で、まさに国民的詩人です」と話
した。ノーベル賞のおひざ元での受賞者誕生に、発表会場
を埋め尽くした数百人の地元記者や文学ファンからは大き
な歓声が上がった。地元作家のグニラ・ルンドゥグルンさ
ん(69)は「誰にも分かりやすい、俳句のような詩をつく
る素晴しい詩人だ」とした。

賞金は1千万スウェーデンクローナ(約1億1千万円)。
授賞式は12月10日、ストックホルムで開かれる。
(伊東和貴=ストックホルム、白石明彦)


平成二十三年十月八~十日
日光

世界遺産 日光の社寺
  奥日光 
光徳牧場/中禅寺湖/小田代ヶ原


観光のメッカ日光は、東北関東大震災の影響を大きく被ったが、
このところやや人出も増え回復の兆しが見えてきているようだ。
それでも門前町としては衰微しているという印象はぬぐえない。



卅日、日光山の麓に泊る。あるじの云ひけるやう、「我が名を佛五左衛門と云ふ。
よろづ正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打ち解けて
休み給へ」と云ふ。いかなる仏の濁世塵土に示現して、かゝる桑門の乞食巡礼ご
ときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯無智無
分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質尤尊ぶべし。

                            『おくのほそ道』

  日光山門前
秋風や五左衛門より酒を買ふ

 
 
 日光東照宮参道  東照宮陽明門

 奥日光も戦場ヶ原をすぎ、光徳牧場の奥に入ると静寂境がひろがる。


 

 





 
光徳に秋の燈ひとつ客未だ
山小屋の縁にも主ちゝろ鳴く
 学習院光徳小屋  周辺湿原の草紅葉


 華厳の滝の水源となる中禅寺湖の透明な湖水

     
  山紫水明の中禅寺湖
千手ヶ浜から男体山を望む
 
 世のうれひ集めてこゝに秋の湖


 日光連山の盟主男体山の秀麗な山容



 

 
 楚々として白樺たてり水の秋
奥日光の紅葉の名所 小田代ヶ原  
高層湿原小田代ヶ原
先月の台風12号がもたらした豪雨の影響により湿原は例年になく水量豊富、
一帯は大部分が水没したまま。
       湖出現
    紅葉の高原



栃木県日光市の小田代原に先月の
台風12号の大雨で「湖」ができた。
連休初日の8日、湖と紅葉の共演を
見ようと大勢の観光客が訪れた。
高さ1メートルほどの木道が水面
下となり、くるぶしまで水につか
る人もいた。県立日光自然博物館
によると、湖ができたのは4年ぶ
り。今後、凍結する可能性もある
という。(森井英二郎撮影)    
参考記事(平成23年10月9日付『朝日新聞』朝刊)



平成二十三年十一月十三日
武州小川


武蔵の小京都と呼ばれる小川町は盆地のなかにあって山紫水明の風光を
今に伝えている。江戸から川越さらに秩父へと通ずる交通の要衝にあり、
古くから栄えていた。細川紙を生産する和紙の町、また晴雲・帝松など
の地酒の産地として知られている。八王子を経て横浜にいたる絹の道に
も連なり、生産・流通で財をなした家が多かった。戦時中は軍の作戦で
風船爆弾をつくった。なにがしかは敵地アメリカ大陸まで達したという。


     
仙元山と東武東上線車輌  東武東上線とJR八高線の袴線橋  東武東上線小川町駅舎

   
 駅近き河原なつかし冬の蝶  清流兜川。やがて槻川と合流する。  落葉して蛇籠隠るゝ堤かな

     
     
     
 清流の小橋の端に冬の菊    


平成二十三年十一月二十五日
上州高山
 

日本ロマンチック街道


 昨年は十一月五日に訪れた高山村、晴天であったが谷川岳を越えてくる風は冷たい。
 そのかわり、初めて十月桜に出会えた。土地柄にふさわしい楚々とした姿であった。
 当地で晴耕雨読の尊師と清談するひとときは何物にも代え難い。都会生活とはまる
 で時間の流れが違う。主客一同で立ち寄った一軒蕎麦屋は客が来てから打つ。二十
 分かかるとの前置があった。七人という人数のせいもあるか、結局二時間を要した。
      
  新蕎麦や畑は近き一軒家

 旧小野上村、現在は渋川市、小野上温泉の「さちのゆ」で一風呂浴び帰路についた。

  
   渋川に美人の湯てふ冬ぬくし



     
 関越自動車道を埼玉県から群馬県へ
遠景は赤城山
 遠く関越国境を望む
雲の彼方に谷川岳
十月桜の咲く高台

 
村を去る人の噂や残り柿
かくれなき小野子の山の冬支度
薬罐など載せるべくして煖炉燃ゆ

平成二十三年十二月十八日
武州飯能
武陽山能仁寺


        武陽山能仁寺歳晩

       玄冬や京より下る坐禅堂
       たづぬれば富士見てゐたり冬の墓
       冬うらら麓の寺の句会かな
 
   
参道  仁王門  本堂
 

   





平成二十二年 旅の記録 


平成二十二年四月十一日
伊勢一宮椿大神社参拝
神事能 金剛流「鈿女」拝見 

 
平城遷都一千三百年祭の奈良を訪ねる旅は、まず伊勢路から入った。
四月十一日は鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ)で京都
金剛流神事能「鈿女」(うずめ)奉納を拝見した。金剛流のみの演目
である。平成元年、春日大社若宮のおん祭(毎年十二月)の御能拝見
以来の経験であらためて能本来の上演形式の一つを見た思いがする。



     
神官と巫女(簪は椿)
巫女のかざしゆかしき椿かな
 神事能奉納前の舞台  橋掛に登場した前シテ(里女)
面―増女、蔓、蔓帯。
着付―箔、唐織着流 扇。
     
  後シテ(天鈿女命)
面―増女、黒垂、鬘帯、
天冠(真柝ノ葛ツケ)。
着付―箔、緋大口、舞衣、腰帯、扇。
  揺らめく天冠

 右手に榊(四手麻緒ツケ)を持ち、
ワキ(椿大神社神職)の前に進む。
 


平成二十二年四月十二日

平城遷都奈良千三百年祭
東大寺参詣
 

 

  東大寺の歴史は大仏の歴史であり、大仏の歴史はやがて大仏寂滅の歴史で
 ある。天平十五年聖武天皇親しく鋳造の詔を発し、天平勝宝四年開眼供養の
 盛儀が行われてより、現在にいたるまでおよそ千二百年になるが、この間さ
 したる異変なく当初の姿を保っていたのは治承四年までである。治承四年の
 冬、平重衡の兵火によって伽藍の大部分が焼失したことは周知のところであ
 ろう。仏頭ももちろん溶け墜ちてしまった。その後も屡々災禍を蒙って、い
 まに残る大仏は江戸時代の再建に成るもので、往時の威容はもとよりうかが
うべくもない。わずかに台座の蓮弁が天平の面影をとどめるのみである。
  我々はいまの東大寺を訪れてもその大きいのに驚くが、建立当初の規模は
 更に比較にならぬほど巨大であり、言語を絶した荘厳華麗を現出していたと
 伝えられる。            (亀井勝一郎『大和古寺風物誌』)


                                

 


  前夜は伊勢から奈良に入って東大寺のすぐ近くに宿を取り、翌早朝参詣した。
 ほとんど人影のない境内は静まり返っていて一千三百年の時の流れが感じられ
 るような気がした。だがそれも時間の問題で気がつくと周囲は中国人観光客で
 溢れていた。仏教東漸の意義を感じてよいのか、複雑な気分を味わいながらそ
 の快活すぎる談笑の渦から逃れた。世界遺産指定がもたらした新観光客の増殖。

     
小雨の中 東大寺大仏殿前の回廊にて
 青丹よし奈良の寺でら小雨がち
 境内の枝垂桜と鹿の群
 みほとけの天蓋こゝに絲ざくら
 正倉院
 あぜ倉や千年の風ふきかよふ


平成二十二年四月十二日/十三日/十四日

 春寒の葛城山登山

春楊葛城山にたつ雲の立ちても坐ても妹をしぞ思ふ        柿本人麻呂
はるやなぎ かつらぎやまに たつくもの                 
      たちてもゐても いもをしぞおもふ     

 
      葛城山の吟                     松尾芭蕉

やまとの国を行脚して、葛城山のふもとを過ぐるに、よもの花はさかりにて、峯々は
かすみわたりたる明けぼののけしき、いとゞ艶なるに、彼の神のみかたちあしゝと、
人の口さがなく世にいひつたへ侍れば

  なほ見たし花に明け行く神の顔

飛鳥奈良はこれまでにも数多く訪れてきたが、葛城山はたゞ望見するばかりであった。
山麓一帯は古代葛城一族の本拠地で天皇家とゆかりが深い。葛木坐一言神社(かつらぎ
にいますひとことのぬしじんじゃ)のつぎに参拝した高鴨神社でも京都賀茂神社とのつ
ながりを知った。むかし、役(えん)の行者から葛城と大峰との間に岩橋を架けるよう
命じられた葛城の女神は容貌の醜いことを恥じ、夜しか仕事をしなかったので蔦葛で縛
られたという。里の女から話を聞いた出羽の羽黒山の山伏一行の祈祷に、やがて女神は
姿を現じ、月白く雪白き一面の白妙の世界で美しく舞う…。初めての葛城山の春登山に
能「葛城」の物語さながらに春雪が舞ったのは、はたして偶然であったのであろうか。

雪と花の今日がやがて若葉の季節となっても葛城の女神の夜の苦役は果てしなく続く。
みじか夜や葛城山の朝曇り           与謝蕪村『新はなつみ』


近鉄御所駅からバスで葛城山登山口に到着。ところが昨年の台風
で主要登山路の櫛羅の滝コースが杜絶。役の行者なき現代のかな
しさ、全面修復は容易ではないらしい。やむなく臨時の北尾根道
(秋津洲展望コースと命名されていた)の新しい径を辿って登った。
大和と河内の境に聳える標高959メートルの葛城山。眼下には
大和の国原が広がる。山頂近くにカタクリの群落があったのだが
四月半ばの雪が降るなか、一つとして開花することはなかった。



天候の回復とともに雪は消えたが夜明け方には樹氷が見られた。
葛城山はギフチョウの棲息地として知られ、数日後にはその観察
会の開催が予定されていた。昼近くには陽光が差した。蝶影を認
めて慌ててカメラを用意。が、時すでに遅く舞姫の姿は林間に。



     
前年の台風で主要登山路杜絶
葛城の女神はいづこ春登山
春の装い 山躑躅
しもとゆふ葛城山の躑躅燃ゆ 
寒さに蕾も固いカタクリの群落
カタクリの莟よりそふ朝まだき
     

 濃霧の山頂 前夜春の雪が降った
 
葛城山ロープウエイから大和三山を望む
 おほどかに大和国原かすみけり
 臨時登山路よりロープウエイを見る



平成二十二年四月十四日

當麻寺参詣 


「天声人語」(朝日新聞/平成十八年四月二十一日(春分の日))

 昨日、東京の都心部の墓地を通ると、前日の嵐で吹き飛ばされた花が
幾つも墓の間に落ちていた。彼岸に入ってから供えられたような新しい
花もあった▼「今日と言ふ日。彼岸中日、春分の空が、朝から晴れて、
雲雀は天に翔り過ぎて、帰ることの出来ぬほど、青雲が深々とたなびい
て居た」。国文学者で歌人でもあった折口信夫の小説『死者の書』(中公
文庫)は、彼岸が物語の節目になっている▼舞台は奈良の都だ。貴族の娘
・郎女が、春の彼岸の中日に念願の千部の写経をなしとげる。その夜、
神隠しに遭ったように屋敷から姿を消す。そして郎女と、以前に刑死し
て山に葬られた皇子の魂の交感がつづられてゆく▼この幻想的な小説を
原作にして、人形美術家の川本喜八郎さんが監督した人形アニメーショ
ン映画「死者の書」が、東京・神田の岩波ホールで公開されている。N
HKの「三国志」の人形制作でも知られる川本監督は、生身の人間が演
ずる時につきまとうにおいのない、澄明な世界をつくりあげた▼郎女は、
皇子の魂を鎮めようとして一心に機を織る。義務や理屈ではなく、何か
につかれたようにして持てる力を尽くし、完成させる。ひたむきな表情
に、やがてやすらぎも宿った▼現実の世界ではまぶしすぎるような営為
が、人形の細やかなしぐさや表情によって真実味を帯びる。川本監督は、
「過去の戦争や現在のテロが生み出す、すべてのやすまらぬ魂のことを
思って作った」と述べている。郎女は、ひたむきさが秘める可能性を静
かに示しているようだ。       
        

       

   (上は署名入りパンフレット)
 
 平成十七年、学生時代以来の愛読書『死者の書』が人形アニメ映画になった。
 それが神田・岩波ホールで平成十八年四月に上映された。すでに見た観能仲
 間の知人の勧めで上映最終日に出掛けた。當麻寺が主な舞台である。折よく
 川本喜八郎監督が観客のためにサイン会を開いていたので、カタログに署名
 を頂いた。それから五年、念願叶ってようやく今年、平成二十二年の春、當
 麻寺参詣の機会を得た。監督はこの夏八月二十三日、八十五歳で世を去った。
 
     
  梵鐘(国宝) 日本最古〈白鳳時代〉
当麻寺や牡丹に早き彼岸過ぎ 
  當麻曼荼羅を本尊とする本堂と二上山。
築地塀から咲きこぼれる八重桜
     
 二上の皇子の墓守る春の雲
境内より若葉の二上山を仰ぎみる。折口信夫
の小説『死者の書』の舞台。天武天皇の第三
皇子であった大津皇子の葬られた山である。
         
極楽庭園に満開の枝垂桜。人工的な造園で
少々戸惑う。人の手は適度に加えることが
肝要か。庭石と植栽、それに借景との調和。
 
 牡丹花や南家の姫が生写し
當麻寺は牡丹の寺。鑑賞にはまだ早すぎた。
が数少ない牡丹の中でこれぞという名花に出
会えた。二基の三重塔を借景に僥倖の一葉。


平成二十二年四月十五日

  御室仁和寺参詣

  二月、三月、四月、━━━━四月に入ると花が咲くやうに
 京都の町々全体が咲き賑はつた。祇園の夜桜、嵯峨の桜、
  その次に御室の八重桜が咲いた。(志賀直哉『暗夜行路』)


 
  京の花見の見おさめは御室桜か。花冷えが緩み待ちかねたように
 境内は爛漫の八重桜が妍を競う。それにしても豪華な花の宴である。

    はなちるや伽藍に樞おとし行く 凡兆

  樞繰る音も絶えた境内に浮かぶ朧月。凄艶な光景は想像を絶する。
 
     
塔ひとつ埋み残しけり花の寺 花曇りの京都 御室仁和寺五重塔三景 
     
 うら山路おのれを咲ける遅桜 御室桜と御山めぐり道しるべ 


平成二十二年四月二十四日/二十五日

越後春景 ギフチョウの里(Ⅰ) 


豊かな自然と美しい風景という点で長い間信濃の夏を愛してきた。
しかしここ十年来は越後の春に心奪われている。山あり、川あり、
そして海あり。しかもそのスケールが大きいだけでなくゆったりと
していることだ。人里近くで雪と花をいつまでも眺めることができ
るのもよい。ギフチョウの里も越後の地のここかしこに散在する。
雪と花に蝶の舞ひあり越の春 

     
 信濃川の彼方に弥彦山  ヤマザクラの枝越しに越後三山  コシヒカリの産地  棚田の残雪
    
雪解野やひといろならぬ菫いろ  芽吹きはじめた疎林の木洩れ日、草地に光あふれ、色さまざまにスミレ花咲く…。 


平成二十二年五月一日/二日/三日/四日/五日

  越後 里山初夏 ギフチョウの里(Ⅱ)


越後におけるギフチョウの吸蜜植物はスミレ・カタクリ・マメサクラ・タンポポ
など、人里でよく見かけるものが多い。幼虫の食草はコシノカンアオイが中心

毎年のことながら産地と発生時期は残雪量の影響を受ける。そこで越後に転戦す
るムシ屋仲間の極秘情報はつねに錯綜
している。聞き捨ててムシするのがよい。


平成二十二年七月三十一日/八月一日

早池峯神社例大祭神楽 


        早池峰山巓 
                 宮澤賢治


  あやしい鉄の隈取りや
  数の苔から彩られ
  また捕虜岩の浮彫と
  石絨の神経を懸ける
  この山巓の岩組を
  雲がきれぎれ叫んで飛べば
  露はひかつてこぼれ
  釣鐘人参のいちいちの鐘もふるへる
  みんなは木綿の白衣をつけて
  南は青いはひ松のなだらや
  北は渦巻く雲の髪
  草穂やいはかがみの花の間を
 
  ちぎらすやうな冽たい風に
  眼もうるうるして息吹ながら
  踵を次いで攀つてくる
  九旬にあまる旱天つづきの焦燥や
  夏蚕飼育の辛苦を了へて
  よろこびと寒さとに泣くやうにしながら
  たゞいつしんに登ってくる
     …向ふではあたらしいぼそぼその雲が
    まつ白な火になつて燃える……
  ここはこけもももはなさくうめばちさう
  かすかな岩の輻射もあれば
  雲のレモンのにほひもする



早池峰山に登ったのは昭和の頃。八月、山腹の〈がれば〉に可憐なハヤチネウスユキソウを
見いだす歓びはアルピニストの特権の一つであろう。その山麓では昔から山伏神楽が奉納さ
れてきた。大償(おおつぐない)と岳(たけ)の集落の競演である。火伏の権現舞などに人々の
願望が込められている。宵宮神楽を見て神社の外へ出た時は漆黒の闇で、携帯電話の明りを
唯一の頼りに、街燈のない田舎道を、宙を泳ぐ感覚で進み、辛うじて駐車場に辿り着いた。


     
 深更に及び宵宮神楽も最高潮 
山伏神楽の迫力
 宵宮や闇わだかまる神懸かり
 
神楽殿狭しと跳梁  

 
   
朝の神楽殿全景
 村の子供たちも大勢祭礼に参列
うつくしき稚児の襷や夏の朝

 神楽奉納が終わり御輿巡行に移る 
   
多くの獅子頭のなかで最新作 権現舞の主役 
 鳥兜に長刀 容貌魁偉 威風堂々
雨乞に早池峰天狗いざ見参
 

Tシャツのデザインに注目
 里の児やりんごのほゝの虫さゝれ
 
   
   

平成二十二年八月二日

 遠野 土淵


遠野物語』

 この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月ごろより
始めて夜分おりおり訪ね来たりこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には
あらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きた
り。思うに遠野郷にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんこ
とを切望す。
 

  要するにこの書は現在の事実なり。単にこれをもってするも立派なる存在理由ありと
信ず。ただ鏡石君は年わずかに二十四五自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時
代に生まれながら問題の大小をも弁えず、その力を用いるところ当を失えりという人あ
らば如何。明神の山の木兎のごとくあまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くし過
たりと責むる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負わねばならぬ
なり。


 おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも   柳田国男


今年は『遠野物語』百年。明治四十三年〈1910〉柳田國男はここ土淵村出身の
佐々木喜善からの聞書きをまとめ自費出版した。遠野は江戸時代は南部氏の城下町。
朝、宿の背後の居城鍋倉城址に登った。一面に夏草生い茂り往時の面影はなかった。


     
 東北の民家の佇まい  茅葺屋根の上に咲くオニユリの花
茅葺くや天蓋の百合をかざしにて
 狛犬の角の上でトンボが翅を休める
遠野市土淵町 曹洞宗常堅寺境内)
     
柳田國男『遠野物語』にある河童淵
遠野市土淵町 曹洞宗常堅寺傍の小川)
涼しさや笹舟むかふ河童宿 
さゝ舟の寄る辺なかりき草茂る 



平成二十二年八月十五日/十六日

  河口湖 忍野湧水とワインセラー
 富士急電鉄に乗って富士河口湖音楽祭に出かけた。
一泊後、音楽家の紹介で忍野盆地に最近できたと
いうワインセラーの店に立ち寄ることになった。



 計画を変更し向かった忍野八海〈天然記念物〉
は初めての訪問であった。八海が湧水群を指
すことを知ったのは迂闊にも現地を見てから
で正に百聞は一見に如かず。遊び心の命名!

 
   
河口湖駅前の宿の玄関の伝言板。富士登山の客、外国人観光客、家族連れと同宿者は多様で、伝言版にも旅の解放気分が横溢。
宿の前から見た富士山。中央の看板は開催中の富士河口湖音楽祭案内用。その一つ、森の中のコンサートを鑑賞した。
 
忍野ワインセラーの店頭のショーケース。勝沼で仕入れたワインを通年十二度という忍野の湧水で寝かせている。白がいい。
 
 
忍野の湧水を利用した天然セラー。引き上げたボトルには苔がついている。 付近に立ててあった案内板。ワインハウスのすぐ下に点々と湧水群がある。  観光地と化した忍野八海と異なり、規模は小さいがよく自然状態が保護されている。


平成二十二年九月二十二日/二十三日(~二十六日)

出雲大社日御碕神社参拝 

寝台特急《サンライズ出雲》に乗り、初秋の出雲路へ出かけた。目
的は古代神話の源郷体験、荘厳な日御碕の落日を見ることにあった。

     
東京駅22:00発  乗車を待つ旅行客  車体に輝く《サンライズ出雲》のパネル

台風接近と秋雨前線の影響で中国山地は大雨。真夜中、稲光しきりに車窓
を射る。翌朝、雨は小康状態になったが、河川の増水激しく伯備線の豪渓
駅で線路の保守点検のため二時間以上運行見合わせとなる。前途多難。
 

   
朝の豪渓駅で運転再開を待つ母子の姿
少年は左手でサンライズ出雲を指差す

かりそめの別れもありき秋の駅 
雨あがり早稲田かり干す奥出雲


平成二十二年九月二十三日(~二十六日)

 出雲
天佑と言うべきか。午後になってようやく着いた八雲立つ出雲の国はふりそそぐ秋の
陽光をもって迎えてくれた。中井貴一主演の映画「RAILWAYS」の舞台となっ
た一畑電鉄で出雲大社に向かう。
出雲の十月は神有月。縁結びの協議があると聞く。

     
ステンドグラスの明かり窓 大社駅舎
映画看板を立てかけた大社駅待合室
鉄道愛好者はスクリーンだけで終わらない

 出雲大社巫女 
   
 

是に大穴牟遅神、其の莵に教へ告りたまひ
しく、「今急に此の水門に往き、水を以ち
て汝が身を洗ひて、即ち此の水門の蒲穂を
取りて、敷き散らして、其の上に輾轉べば、
汝が身本の膚の如、必ず差えむ。」とのり
たまひき。故、教の如為しに、其の身本の
如になりき。此れ稲羽の素莵なり。

    
                『古事記神代』

  
 出雲大社   大國主命  大国主命と因幡の白兔
 蒲の穂の床たへてなき憂き世かな
 

日御碕
  
出雲大社から一畑電鉄の路線バスに乗り、一路日御碕に向かった。すでに
半途にして神々しく光りだす海……。燈台に着いてまもなく雲と海とのあ
わいに無窮の国の不滅の日輪の物語が、現実を超越して繰り広げられた。
行く秋を神のまにまに日御碕
     
 海かがやく
 かむながら出雲秋天海蕭条
 海上に映る日輪  日御碕神社遠望
     
 日本海の潮風に空高く舞う鳶  日御碕燈台
 白秋や白き燈台白き雲
 秋の陽光を浴びる白亜の燈台
     
 日御碕日沈序章  海の夕映え  神の光
     
 海上をゆく船  海に刻まれる時
 神の舟見ゆる刻なり秋の夕
 跡も残さず消えゆく船
     
 大海原を支配する日輪  最後の夕映え
あかあかと秋の夕日の沈みけり 
燈台残照
     
 雲海残照  残照と鳥居  彩雲
     
 日沈宮の注連縄  夕闇の日御碕神社
秋ひと日おもひつもりて海昏れぬ


 出雲の宿
 



 
 日本海の幸 刺身盛り合わせ 江戸前と
は趣を異にして
黒潮の恵み横溢 地酒は
「出雲誉」(株・竹下本店ー12代当主竹下
元首相)がよい 都内で「都の西北」販売
出雲の国島根県浜田市は
赤鯥(のどぐろ)の名産地
味秀逸 鯛も遠く及ばず
日本海の美味 極まれり
 サンライズ出雲の寝台個室に似ている
 出雲ロイヤルホテルの客室 否その逆
 
というべきか
 ここは結婚式場もある


平成二十二年九月二十四日(~二十六日)

出雲から厳島 
 
朝10時、出雲市駅発のJR西日本の高速バスで広島駅へ
移動、さらに山陽線宮島口駅からフェリーで厳島へ渡る。

     
JR西日本運航のフェリー  大鳥居に集まる観光客            厳島観光の宿の一つ
     
大鳥居三景  夕映
秋の日や鳥居にやすらふ鳥一羽 


     
 狛犬阿形 開演を待つ万作・狂言十八選  狛犬吽形
     
大鳥居三景 昏明


 釣狐

登場人物
 白蔵主 野村万作
 猟 師 石田幸雄

一族を猟師に釣りとられた古狐が、狐を釣ることをやめさせるため、
猟師の伯父の僧・白蔵主に化けてそのたたりの恐ろしさを語り、つい
に罠を捨てさせる。嬉々として帰る道すがら、白蔵主は先刻捨てさせ
た罠を発見する。それには大好物の油揚げが! 食いつきたい衝動を
抑え姿を消した白蔵主は、化身の扮装を脱ぎ、本来の狐となって現れ
るが…。       上演時間:約75分(『万作・狂言十八選』


二〇〇七年一月「靫猿」(国立能楽堂)で始まった「万作・狂言十八選」
は四年の歳月をかけて二〇一〇年九月「釣狐」(厳島神社)で完結した。
人間国宝野村万作は、その間、北は函館五稜郭、南は四国金丸座まで全国
各地に舞台を求め、国土安穏を祈念する能狂言の存立をかけ狂言芸術を昇
華してきた。ここ厳島の国宝の能舞台に、万作狂言の集大成、生涯の執心
となった「釣狐」にめぐりあわせた仕合わせを思う。演出は袴狂言、直面
で装束なしの前場のみ。大曲釣狐を役者の精神と型で表現する極限の舞台
であった。橋懸かりで我が姿をのぞきみる百歳の古狐、〈水鏡の習い〉の
奥儀のために選ばれ、時至って、月下にいま潮みちきたる神の社の舞台。
その眼に白蔵主は見えたのか? 自身の全存在を賭して化けなければなら
ない真の必然性とは何か? 眷族ことごとく釣った手強い猟師に立ち向か
って勝算はあるか? 厳しく自問する瞬間である。暗い海面は答えない。
〈Metamorphose〉はこうした神聖な舞台で選ばれし者にのみ許される秘蹟
であろう。たんに古狐が僧になるという狂言の演出にとどまらない何事か
と向き合った痛切な交感の記憶が刻まれた。折しも夜陰に乗じて鹿が現れ
万作の舞台の傍をとおり、正面にあたる満潮の南回廊下へ消えていった。

 

     
 東回廊より見た国宝能舞台  東回廊より見た南回廊と西回廊  南回廊より見た能舞台正面
     
回廊に設けられた見所と観客  満潮期、能舞台に次第に押し寄せる海水  潮満ち、いま海上に浮かぶ能舞台

     
上演中は録音撮影禁止 終演後にも
潮位はさらに上がり回廊全体海上に
 漆黒の海に浮かぶ大鳥居  厳島を照らす明月


平成二十二年九月二十五日(~二十六日)

広島

     
  太田川水上から見た世界遺産の原爆ドーム  原爆の子の像 「地に空に平和」の願い   多くの川が集まる「水の都 広島
     
原爆ドームを前に水上オートバイで遊ぶ青年
たち
 戦争と平和の鮮明なコントラスト
 原爆ドームの頂点に佇立する青鷺 翼ある
生き物の座 人間はただ仰ぎみるのみ
水上タクシーでお世話になったクルー 満潮
 時でないと運航が難しい 折よく乗船できた 

西條

     
 白牡丹酒造 夏目漱石愛飲の酒
延宝三年(1675)創業
 龍王山の伏流水 醸造に適した弱軟水
各酒蔵とも伏流水が命
 西條鶴醸造 酒蔵通りで最初に試飲
モンドセレクション連続金賞受賞
     
 全国に先駆けて吟醸酒造り
を始めた賀茂鶴酒造
 本陣(御茶屋)跡
江戸時代に大名や幕府の要人が宿泊
 賀茂鶴が経営する仏蘭西屋
当店限定の西洋料理用日本酒あり

尾道


                志賀直哉『暗夜行路』
 
  漸く千光寺へ登る石段へ出た。それは幅は狭いが、随分長い階段だつた。段の中頃に二軒
 の硝子戸を締め切つた茶屋があつて、どの家にも軒に名所絵葉書を入れた額が下つてゐた。
 段を登り切つて、左へ折れ、又右へ少し、幅広い石段を登ると、大きな松の枝に被はれた掛
 茶屋があつた。彼は其床机に腰を下ろした。                     
  前の島を越して遠く薄雪を頂いた四国の山々が見られた。それから瀬戸海の未だ名を知ら
 ぬ大小の島々、さういふ広い景色が、彼には如何にも物珍しく愉快だつた。




     
 千光寺から志賀直哉旧居へつづく坂道  天寧寺三重塔  三重塔水煙
     
 瀬戸内しまなみ海道 新尾道大橋 尾道水道の対岸 向島の造船所風景
NHK連続テレビ小説「てっぱん」の舞台 
 尾道水道から瀬戸内しまなみ海道を望む 


                
                 加藤周一『日本文学史序説』

  長篇小説としての建築的構成は、ここにはない。部分的な場面は並列され、それぞれ独立した短
 篇の趣きを備える。またその場面がしばしば緊密に美しく描き出され(たとえば山中の孤独な主人
 公が宇宙との融合感を覚えるところ)、各部分を統一する唯一の強い力が同じ主人公の濃密な現在性
 の他にないという点でも、この小説の全体は「絵巻物」に似る。

  志賀直哉は純日本製であった。意識して平安朝以来の文化的伝統に近づいた谷崎の場合とは異り
 いわば無意識的に、おそらくは彼自身の意に反してさえも、志賀は『伊勢物語』以来の日本式の土
 着世界観と美学とを体現していた、ーーその此岸的世界の日常性、超越的価値の欠如、鋭い細部の
 観察と美的感受性、表現においては全体からではなく部分から出発する傾向。
 



 
            尾道好日(阿川弘之『志賀直哉』)

  直哉は晩年、家族宛ての遺書に「名を残す事は望まず」とかくくらゐだからまして
 言はんや、昔自分の住んでゐた家が文学遺跡の名目で永く後世に残ることなぞ、望ん
 でゐなかつた。                    
  「死んでしまつた人間の元のすまひを保存するために、現に生きてる人間が不便な
 思ひをさせられたり迷惑を蒙つたり、実に馬鹿々々しい話でね」そんな物、必要に応
 じて建て替へるなり、さもなければ歳月の自然な流れに委せて朽ちさせて了ばいいん
 だよといふ口調で語るのを、私どもは生前何度となく聞かされた。    
  それを思へば事志とちがふけれど、大正初年直哉の暮した尾道宝土寺上の棟割長屋
 が、現在「文学記念室・志賀直哉旧居」として、尾道商工観光課の手で修復公開され
 てゐる。
  石崖の上に建つ、もともとは粗末な三軒長屋の、西の取つつきが受付兼「映像文学
 コーナー」、真ん中は此の長屋と本来何の関係も無い「林芙美子書斎」、東の端が六
 畳と三畳二た間の「旧居」、南に面する六畳間の縁先に坐れば、正面眼下に尾道の港
 が見える。

 


 志賀直哉『暗夜行路』

 謙作の寓居は三軒の小さい棟割長屋の一番奥にあつた。隣は人のいい老夫婦で其婆さんに
食事、洗濯その他の世話を頼んだ。其先きに松川といふ四十ばかりのノラクラ者がゐて、自
分の細君を町の宿屋へ仲居に出して、それから毎日少しづつの小使銭を貰つて酒を飲んでゐ
るといふ男だつた。
 景色はいい処だつた。寝ころんでゐて色々な物が見えた。前の島に造船所がある。…… 

 

     
 尾道のどこにでもありそうな
長屋の玄関口 小説では粗末な建物
三軒長屋一番奥、東端の部屋
 軒下に瓢箪が下っていた

 清兵衛が瓢箪かけたり軒に風
硝子戸に映る尾道の街
 風景の記述は『暗夜行路』にある。

     
 住吉神社 尾道・鞆の浦航路の港がある  海岸沿いのホテルで迎えた尾道水道の朝 JR山陽線 尾道駅ホーム

倉敷美観街

     
 青鷺を威嚇する白鳥 美観街の抗争 遊覧和船 青柳に錦鯉
     
秋空に羊うらやむ風見鶏 
倉敷アイビースクエアー風景 
   
 大原美術館 


 倉敷

     
萩の花に吸蜜する蝶・ウラナミシジミ
倉敷美観街の水路端の植え込みで撮影
 倉敷の裏通りにあった古書店の看板
看板の下の真っ白な暖簾は倉敷帆布
 しみもなき暖簾まばゆし蟲文庫
 購入した文庫のカバー
脚本家の意外な著作

 倉敷
     
   テレビ・ラジオ出演多数という倉敷名物「桃太郎のからくり博物館」住宅正人館長の〈ちくわ笛演奏〉  
当日の演奏曲名/桜 〈コブクロ〉

習得には十年以上かかる超絶技法 ちくわ楽器は太くて長い高級品を使用 誠実なミニコンサート 


新幹線「のぞみ 

     
 左前座席の可愛らしいお坊さん?   右前座席の窓際にもお坊さん?  イスラム風の帽子が似合う?


平成二十二年十月十六日

杉並公会堂 

 

川本喜八郎監督の業績を偲ぶ会

入場予約をとって追悼上映会に出かけた。午後4時開演で終わったのは午後9時30分という長丁場、途中何度も監督の関係者の話をはさみながらの進行であった。初めて観る作品ばかりで興味深かったが、上映時間1分の「セルフポートレート」は、瀬川瑛子の演歌「命くれない」にのって展開、監督のサービス精神が遺憾なく発揮されたもので、大いに楽しめた。また、安部公房原作『詩人の生涯』は不思議な魅力をたたえ美しい仕上がりであった。代表作との定評がある『道成寺』『火宅』は能に取材した作品。嫉妬や怨念を主題とするが、それらは最終的には集大成となった『死者の書』をもって救済されるべきものであろう。長野県飯田市に川本喜八郎人形美術館があるという。早速、今秋にも訪れてみたい。      
          
 
 川本喜八郎「三国志百態えはがき」

関羽雲長 劉備玄徳 諸葛亮孔明
黄忠漢升 張飛翼徳 趙雲子竜

 
 



平成二十二年十一月七日(日)~二十日(土)

 ラピュタ阿佐ヶ谷 

 
執心と悟りー川本喜八郎の仕事

人形美術家、そしてアニメーション作家。
人形に魂を込めた作品の数々は
不条理で美しく、人間の深層を鮮烈にうつしだす。
人形とともに生きた一人の作家の軌跡をたどる。
全十七作品を一挙上映。




2010年10月ホームページ公開以降 


平成二十二年十一月五日(金)

群馬県高山村 

日本ロマンチック街道
 
 秋高し関越結ぶ送電線 
鉄塔の造形美天を摩し
関越を結ぶ高圧送電線。 脚下には「村の展望台
小野子山遠望/登山もしキャンプもした山
ウスバシロチョウ・アオバセセリ・多数のヒョウモンチョウ類を採集したことがある

リンゴ園/隣接の沼田市に熊!
「陽光」の収穫の目下最盛期。
「新世界」はまだ熟していない
 初恋や林檎畠の細き道

都民でありながら年の大半を高山村で暮らすわが尊師を訪ねた。
悠悠自適の生活ぶりから有形無形に学ぶことが多い。ときたま
遊びに行く身としては、 春の山菜狩りと秋のリンゴ狩りの時期
は外せない。そのときは尊師がたとえ東京にいてもお帰り願う。


平成二十二年十一月十日(水)

ラピュタ阿佐ヶ谷  


冬の日やhok・kuつとむるヲロシアびと 
     ※冬の日/芭蕉七部集の第一 季題を兼ねる  
      ※hok・ku/発句 連句の最初の句 のち独立し俳句  ※ヲロシアびと/ユーリー・ノルシュテイン


川本喜八郎企画・監修の連句アニメーション「冬の日」を観た。
尾形仂・那珂太郎の監修も得てはいるが、欧米や中国を含む三十五名の作家は振り分けられた各句を、時代・国籍を超えて自由に解釈し、共同作品に仕上げている。アニメ作品のあとに「『冬の日』の詩人たちという参加作家のインタビューがまとめられている。各自の解釈とともに興味深かったのはそれぞれの創作現場であるアトリエの様子であった。阿佐ヶ谷駅北口のスターロード一帯には昭和のよき雰囲気が残っている。現実世界も捨て難い。

秋暮るゝ阿佐ヶ谷路地や赤ぢやうちん 




平成二十二年十一月十三日(土)~十四日(日)

飯田市川本喜八郎人形美術館

 
 世にあらた人形のまち伊那の秋
晩秋の南信州飯田に川本喜八郎人形美術館を訪ねた。
城下町飯田は江戸時代から伝わる人形劇を守り現在に
その伝統を伝える、本美術館に相応しい土地である。
折よく映像ホールでは「死者の書」を上映していた。
岩波ホール以来の鑑賞の機会を得たのも何かの巡り合
わせ。展示室には今も監督の夢を語り続ける人形群。

 
霧ヶ峰ふもとかすみて湖の秋 
 季節外れの黄砂にかすむ諏訪湖風景 
 日本列島の真ん中に位置する諏訪湖 

より流れ出る天竜川に添って伊那へ
 しぐるゝは天龍あたり山は雪 
諏訪から岡谷を経て入った伊那谷から望む
木曽山脈(中央アルプス)は早くも雪化粧

天竜川を挟み赤石山脈(南アルプス)も雪
 霜月や経済録の儒者もがな
旧飯田藩の城下町・飯田市内にある
儒者太宰春台(1680~1747)の邸宅跡
文化の香り高い信州の小京都の象徴
   
 市内中心部の舗道にあるりんご並木の風景
 蔵造りの白壁とりんごの赤のコントラスト
 が観光客の目を楽しませる 信濃の秋 酣
JR飯田線・飯田駅舎 
中央のステンドグラスは赤いりんごのデザイン

出雲の一畑電鉄大社駅舎を現代風にした感あり
りんご並木の「ふじ」が完熟していた
ホテルニューシルクの朝食のりんごジ
ュースは格別新鮮 宿酔が吹き飛んだ
   
 中央広場では地域振興の物産展開催中、多くの人々で賑わっていたその後時間の許す限り市内を散策してみた。
理想的な都市作りへの意欲は感じられるものの投資不足か。市街地全体として整備が不均衡で、商店街にも本来
の活力がない。主要交通網から遠く、過疎化が進む傾向が感じられたが、殷賑な商店街を取り戻すために必要な
歴史的文化的そうして何よりも人的潜在力を十分に持ち合わせている。観光と物産の積極的戦略の展開を願う。
     
昼/収穫したての新蕎麦に堪能
 新蕎麦や三河信濃のいづれより
夕/袖に止まった雪虫(しろばんば)
半翅目アブラムシ科の昆虫 リンゴワタムシ
雪虫の旅はふれあふ袖次第
夜/信州の珍味「蜂の子」に挑戦
蜂の子のかたき討て里の親蜂

茸狩山浅くいぐちばかりなり  正岡子規


左の看板冒頭に大書されし「天然きのこいくち」とはそもいかなるものぞ。まず読み。天然はよし、平仮名六文字の意味判然とせず。百見は一食に如かず。註文したる結果、実物出現せり。右の映像その実物なりき。子規の句に蔑まるゝ如く味、茸(きのこ)以前の禅味にありや。ことさら
大根下ろしを添へたれば未生以前の味覚を問ふに似たり。
いくち、猪口(いぐち)なるべし。嘗て広く食されけり。

石井象二郎著『昆虫学への招待』に「昆虫は種類が多いにもかかわらず、食用になるものは少ない。わが国ではイナゴ、ハチの子(クロスズメバチの幼虫)、ザザムシ(カワゲラの幼虫)などが一部で食用に供されている。」とあったが、夜寄った飯田の居酒屋は全て品揃え、地元で評判の店であった。昆虫食材の一品ではさらに「絹の花」(カイコガの繭)。他に天竜川産鮎のウルカ(小砂混じり)、伊那の馬刺し(トロ)といった動物性蛋白質に加え、見たことも聞いたこともない天然きのこ類 et cetera。厳しい自然と共生してきた古人の知恵、貴重な山の幸のお裾分けに深く感謝しつつ地酒を友に食した。
熱燗や都鄙へだてなき酒談義



平成二十二年十一月二十七日(土)

 奥武蔵 越生・髙麗郷篇

今年初めて雲隠之会の有志と晩秋の奥武蔵の文学散歩に出掛けた。正丸峠の宿の主はあいにく都に万作
狂言を見に出ていて不在であった。時をあらためて訪れることにし、とりあえず武蔵丘陵は越生・髙麗
の里で得た感興を仮初めに
「越生髙麗十句」と題し、ささやかな旅の記憶として留めおくこととした。


     
秋草のあやふく咲ける鉄路かな
柚子の香が越生の里の道しるべ 
秋深し酒蔵の鼻かくれなき


   
杜氏殿はいま蔵のなか新走
蔵元の門は柚子の木蔭にて




 
古壁のなまめきにけり蔦紅葉 
 世を遁る庵むすぶらし稲子麿
鬼灯の実の赤く見ゆ萼透けて 


   
 錦秋の巾着田ゆく君おもふ
天下地下大将軍ぞ髙麗の冬 


平成二十二年十二月七日(火)

早稲田通り 明治通り 新目白通り

JR高田馬場駅から早稲田通りを都心方向へ向かう。やがて明治通りと交わる。
明治通りに面した街路樹は、ユリの木。左折してさらに行くと高戸橋がある。
池袋方面へ行かず右折、新目白通りを神田川沿いに、江戸川橋方面へ向かう。
通りは、スズカケの木、川沿いの遊歩道は、ソメイヨシノ。街路樹の落葉集。

葉隠や暖簾の下の木の葉掻く

     
 左二葉、スズカケの木/右五葉、ユリの木  ソメイヨシノ(左一葉、ユリの木)  ユリの木(葉の尖端部が個性的)



平成二十二年十二月十一日(土)

忘年会

忘れがたきことありながら
なほ忘れたきことも多き年
の瀬、稲子麿の草庵に人々
集ひてかつ飲みかつ食らふ

鴨鍋や湯気やはらかに時つゝむ
宮古島の泡盛 横須賀の白菜 
草手折り匠つくりし虫の秋   稲子麿

 
 酔客はみな戯画のうち年忘れ


平成二十二年十二月十一日(土)

冬の小鳥

 


先月、岩波ホールで「冬の小鳥」を観た。新聞の映画案内欄によると
新宿武蔵野館で本日からアンコール上映するという。ウニー・ルコン
ト監督自身の実体験を織り交ぜた韓国
フランス合作の映画である。
父親に捨てられ、女子だけのカトリックの児童養護施設で暮らすこと
になった九歳の少女ジニ。そこで仲よしになった年上のスッキと庭で
見つけた、傷ついて飛べない小鳥の世話をする。やがて小鳥は死に、
スッキも約束を破ってアメリカ人夫妻の養女になって施設を去る。小
鳥の墓を掘り返すジニ。みなが教会へ行く日、具合が悪いとひとり布
団に残ったジニは抜けだしさらに穴を掘り進め、そこに小さな自分の
身体を埋める…。小鳥は死んだがジニは再生する。不条理な大人の世
界に必死に抵抗しながら生きる無垢な魂の軌跡が痛々しくも美しい。


みこゝろはみなしごにあり冬の雨
むねふかく冬の小鳥をかくまひぬ
 



平成二十二年十二月十六日(木)


柿之記

 それ詩歌の道は柿本にはじまれり。
嵯峨に落柿舎あり。法隆寺の鐘は
柿くひながら聴く。此の歳の暮、
尊翁より柿三顆を賜りたり。干柿
 なるに一興催し、種なき一句吟ず。


 
干し柿に甲斐の日和をたづねけり 



平成二十二年十二月十八日(土)


速報師走の神田川  狸転落の顛末」


狸之記

世に狐狸といふ。奸智をもつて
人を誑かす同類なり。狡猾なる
は狐にして狸その後塵を拝す。
赤いきつねと緑のたぬきと喧伝
する筋あり。食味の厚薄、いづ
れがよきか、老若宜しく之を判
ずべしと。人智また恐るべし。


 
かなり前から学習院を経、椿山荘へ連なる目白台にタヌキが住み着いているという。その証拠に、ここ椿山荘の総支配人は庭園のタヌキに永住権をあたえ、人間に理解と協力を求めている。ただし、シッポの出た妙齢の女性とか、葉っぱに変わるクレジットカードにはくれぐれも注意する必要がある。
椿山荘の無茶庵で蕎麦を食したあと、江戸川橋に向かって神田川沿いの遊歩道を歩いていると、年若い巡査が自転車を脇に置いて無線で連絡を取っていた。すわ、事件発生か! たずねてみると、
まさに図星!
 これが神田川転落事故現場写真。
 
対岸から現場検証すると、転落したのはタヌキであった。 心細そうにハシゴにすがり、救出を待っている。

 
一休橋の上は時ならぬ鈴なりの人だかり。世紀の救出劇を固唾を飲んで見守る。
警察からの応援要請を受けて、東京消防庁レスキュー隊の第一陣が出動、降下開始。  ただいま現場到着「目視結果、無傷」

続いて第二陣接近。「おい、どうした?」
「変だ、網の中にいないゾ!」「馬鹿な!
手とシッポが出ている。化かされるな!」
「網でまずかったら、釣狸でいこうゼ!」
(筆者曰く「こりゃ新作狂言じゃのう」)
「こんどは水遁の術だ。早くロープを引いいてくれ。河童に化けたらお手上げだ!」 「引き揚げるぞ。タヌキに見えるか?」
「いや、おサラがのってる気がする!」
 

 
かくして衆人環視のなか、警察・消防による大捕物は上首尾の千秋楽。
(筆者曰く「靱猿のぬいぐるみのようにも見えるが、気のせいか?」)
なお転落狸は「椿山荘狸」の鑑札つきと確認のうえ、人払いして釈放。
小狸の小狸のまゝ御用かな
されど
小狸に椿山荘の手形あり
 


平成二十二年十二月二十三日(祝)

東京都庭園美術館

斜陽之賦 

王政復古といふことありて
大帝の皇統 みな栄えけり
星霜うつり 国体わりなく
いま朝香宮滅び旧邸屋上わ
づかに斜陽をとゞむる而已



   
今上陛下喜寿の誕生日、東京都庭園
美術館(旧朝香宮邸)を訪れた。初
 冬の午後、日は既に西に傾いていた。
「朝香宮のグランドツアー 」と題する企画展
では英国貴族の子弟の学業の総仕上げに倣った
朝香宮の大見聞旅行の成果が展示されていた。
   
旧朝香宮邸はラパンやラリックのデザインを採用
したアール・デコ様式の斬新な設計で知られる。
内部で唯一撮影可のウインター・テラスの一角。

 温室やあてびとの香のほのかなる
邸南に面した芝生の庭園。残照の三階部分に
あるのがウインター・テラス
敗戦後、多く
の皇族はその身分を失い一般国民となった。

冬日いま貴族なき世の斜陽かな
   
 正門から本邸へのアプローチとなる洋式庭園  奥まったところにある茶室前の日本庭園


平成二十二年十二月二十八日(火)

 椿山荘庭園 若冲と羅漢

若冲居士(1716~1800)は京の人 不惑の年に俗事を離れ画業専一を決心 緻密にして奔放 宗教心篤き稀代の画家かつて洛南鳥羽某寺にありしと伝ふる五百羅漢の壮観いかなりしか 東都椿山の道場に移りたる羅漢に其一端を知る
若冲の羅漢起き伏す椿山
 朝じゃ そろそろ看経の時刻かのう  無明長夜の夢いまだ覚めやらず むにゃ
   
 公案が解けぬ なんとしたがよかろう うむ われ悟達せり そりゃ 羨ましいのう

 
 
 寝冷えをしたらしい 腹が痛む  苔蒸すまで坐禅 なお迷いを生ず  まこと左様か 耳の痛い話じゃわい
   
 例の腰痛じゃ ちと御免蒙る  われら一統 だいぶ老いたもんじゃ  修行するはわれにあり 自然の声を聴け
 
 断食修行 < 木食修行 不可思議なり 起き伏すわが存在 
 みじろぎは夙に知られて蜷の道



平成二十二年十二月三十一日(金)大晦日

文京区立新江戸川公園

今年は寅年。虎は食肉目ネコ科に属する最大の猛獣。朝鮮出兵の加藤清正虎退治の武勇伝から竹やぶに潜むことが知られる。竹に虎は取合わせ。
ここ、文京区立新江戸川公園(旧細川邸)に住み着いているのはネコ科の中のネコ(イエネコ)が半野生化し、それ故に世に野良猫と呼ばれている一匹。
つねは奥まった林間にあって姿を見せない。笹を竹やぶに見立てた。虎に代わって干支交替のご挨拶まで。
 ※〔十二月三十一日撮影〕

トップページに戻る