俳諧 |
俳諧反故籠 毎日見馴れたる十歩の小庭にでも探せば詩趣は出で来るなり、きのふ探し尽したる後にも
猶探し居れば今日も亦新しき詩趣を得ん、況して四時朝夕日夜、時の変る毎に詩趣常に新 なるべし、 試みに門前に出でよ、試みに郊外に出でよ、何物か詩趣ならざらん、何事か材料ならざら ん、されど小庭門前郊外のみに安んずるは宣しからず、若し出来得べくんば高山大海にも 遊べ、名所旧跡にも遊べ、詩料いよいよ多く詩想ますます高からん、 (『ほとゝぎす 第二号』 明治30・2・15) ※正岡子規〈1867-1920〉 |
遺状 その三
一、杉風へ申候。久々厚志、死後迄難忘存候。不慮なる所に而相果、 御暇乞不致、互に存念無是非事ニ存候。弥俳諧御勉候而、老後 の御楽ニ可被成候。 一、甚五兵衛殿へ申候。永々御厚情ニあづかり、死後迄も難忘存候。 不慮なる所ニ而相果、御暇乞も不致、互ニ残念是非なき事ニ存候。 弥俳諧御勉候而、老後はやく御楽可被成候。御内室様之不相替 御懇情最後迄も悦申候。 一、門人方、キ角は此方へ登、嵐雪を始として不残御心得可被成候。 元禄七年十月 自筆 はせを 朱印 ※松尾芭蕉〈1644-1694〉 |
竹内玄玄一著『俳家奇人談』『続俳家奇人談』抜粋
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向井去来『去来抄』
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向井去来『旅寝論』
※向井去来〈1651-1704〉
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向井去来『去来抄』 田のへりの豆つたひ行く蛍かな 元は、先師の斧正有りし凡兆が句也。『猿蓑』撰の時、凡兆曰く「此句見る処なし。のぞく べし」。去来曰く「へり豆を伝ひ行く蛍火、闇夜の景色、風姿あり」と乞ふ。兆許さず。先 師曰く「兆もし捨てば、我ひろはん。幸ひ、伊賀の句に、似たる有り。其を直し、此句とな さん」とて、終に万乎が句と成りにけり。 (※田の畝の豆つたひ行蛍かな 万乎(『猿蓑』) ※向井去来〈1651-1704〉 |
向井去来『去来抄』
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服部土芳『三冊子』
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服部土芳『三冊子』 師の曰く「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし。行くにしたがひ、心の改ま るは、たゞ先へゆく心なれば也。発句の事は一座、巻の頭なれば、初心の遠慮すべし。『八 雲御抄』にもその沙汰あり。句姿もたかく、位よろしきをすべしと、むかしより云ひ侍る。 ※服部土芳〈1657-1730〉 |
鬼貫『独ごと』
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与謝蕪村『歳末の弁』
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『俳諧大要』第六 修学第二期
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子規の誡め(高浜虚子著『回想 子規・漱石』)
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子規の死を知り虚子に宛てた漱石の手紙
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寺田寅彦「連句雑俎」
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寺田寅彦「映画雑感 Ⅰ」
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寺田寅彦「俳句作法講座」
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小宮豊隆「芭蕉の世界」
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柴田宵曲「評伝正岡子規」
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ドナルド・キーン「正岡子規」 子規が俳句の詩人ないしは批評家としての仕事を始めた時、世間一般には俳句に対する関心の
衰えだけがあり、しかも記憶に残るような俳人は当時一人もいなかった。子規の重要性は、子規 が仕事を始めて以来、俳句が博してきた絶大な人気を通して評価することが出来る。今や百万人 以上の日本人が、専門家が指導するグループに入って定期的に俳句や短歌を作っている。新聞は 毎週、権威ある俳人や歌人によって評価された素人の詩人たちの詩歌にページを割いている。大 いなる関心は、日本人だけに限られているわけではない。日本以外の国々で、何千という人々が 可能な限り多くの規則を守りながら、自国の言語で俳句や短歌を作っている。いわゆる俳句を作 る技術は、今や多くのアメリカの学校で教えられていて、子供たちはソネットや他の西洋の形式 で詩を作ることが出来なくても、俳句で詩的本能をみがくことを奨励されている。子規の俳句が 翻訳の形で現れる以前、外国の日本学者たちは(かりに彼らが俳句に言及してくれたとしての話 だが)俳句をただの気の利いた警句として片付けていたものだった。しかし、これはもはや事実 ではない。 子規の早い死は、悲劇だった。しかし、子規は俳句と短歌の本質を変えたのだった。昔から讃 美されてきた自然の美を子規は無視したが、しかしこうした無視は基本的に日本人の美的嗜好を 変えることがなかった。梅の香のほのかな香り、霞のごとくたなびく桜の花々は平安時代と同様 に今も変わらず日本人を喜ばせているし、何百万とは言えないまでも何万という日本人が秋の紅 葉狩りのために遠出をする。しかし詩人たちは、もはやそうしたものに触れることはない。詩人 たちがむしろ好むのは、俳句や短歌を作ることで現代に生きる経験を語ることだった。これは、 子規の功績だった。 ※ドナルド・キーン〈1922- 〉 |
芥川龍之介「芭蕉雑記」 鬼趣 芭蕉もあらゆる天才のように時代の好尚を反映していることは上に挙げた通りである。その著しい例の一つ は芭蕉の俳諧にある鬼趣であろう。『剪燈新話』を翻案した浅井了意の『伽婢子』は寛文六年の上梓である。 爾来こういう怪談小説は寛政頃まで流行していた。たとえば西鶴の『大下馬』などもこの流行の生んだ作品で ある。正保元年に生れた芭蕉は寛文、延宝、天和、貞享を経、元禄七年に長逝した。すると芭蕉の一生は怪談 小説の流行の中に終始したものといわなければならぬ。このために芭蕉の俳諧も ー 殊にまだ怪談小説に対す る一代の興味の新鮮だった『虚栗』以前の俳諧は時々鬼趣を弄んだ、巧妙な作品を残している。たとえば下の 例に徴するが好い。 小夜嵐とぼそ落ちては堂の月 信徳 から尻沈む淵はありけり 信徳 古入道は失せにけり露 桃青 小蒲団に大蛇の恨み鱗形 桃青 気違を月のさそへば忽に 桃青 夫は山伏あまの呼び声 信徳 尾を引ずりて森の下草 似春 一念の鰻となつて七まとひ 桃青 骨刀土器鍔のもろきなり 其角 山彦嫁をだいてうせけり 其角 痩せたる馬の影に鞭うつ 桃青 忍びふす人は地蔵にて明過し 桃青 釜かぶる人は忍びて別るなり 其角 今其とかげ金色の王 峡水 槌を子に抱くまぼろしの君 桃青 袖に入る螭竜夢を契りけむ 桃青 これらの作品の或ものは滑稽であるのにも違いない。が、「痩せたる馬の影」だの「槌を子に抱く」だのの 感じは当時の怪談小説よりもむしろもの凄い位である。芭蕉は蕉風を樹立した後、殆ど鬼趣には縁を断ってし まった。しかし無常の意を寓した作品はたとい鬼趣ではないにもせよ、常にいうべからざる鬼気を帯びている。 骸骨の画に 夕風や盆提灯も糊ばなれ 本間主馬が宅に、骸骨どもの笛、鼓をかまへて能する所を画きて、壁に掛けたり(下略) 稲妻やかほのところが薄の穂 ※芥川龍之介<1892-1927> |